皆さま、こんにちは^ – ^

昨日、ヴィオラ三宮にて、特別レッスンをさせて頂きました。

ヨーガの醍醐味はアーサナの先にあるのに、

アーサナメインのクラスが主流である現代の傾向に

違和感をずっと感じてた矢先、

座学メインのクラスをさせて頂けたことに、心より感謝です。

座学内容は、二元論。

私達の住む宇宙は、全てが二元の性質を帯びているのには理由がある。

今日は、そんな二元論の世界観をもう一度お話したいと思います^ – ^

二元論とは、この世は全て異なる2つの原理から成り立っている。

という思想のことを言います。

私達の住む宇宙は、全ての物事、事象において
必ず真逆の性質が存在しています。

悲しみがあるから喜びがあり、

闇が存在するから光を知ることができ、

愛を学ぶために憎しみが在る。

つまり、善や光を知るために、それとは対極の悪や闇が存在し、

比較するものがないと、それ自体が何なのか?

ということを理解できない。

私達は、みな、他人がいるから、

自分という概念を打ち建てることができているのです。

自分を知るための材料は、

実は最初から全て目の前に用意されていて、

ただそこに在るものを、

身体という媒体を通してどれだけ感じとれるかで、

目に映る世界は全く変わってきます。

このことからも分かるように、

その人の内面の人間力というやつは、

その人がどうゆう性格でどんなタイプかで決定づけられるものではなく、

どんな環境や状況下に自分の身を置いているか?で決まるのです。

私達は、オギャーと泣いて、この世に生まれ落ちたその瞬間から

今世での人格形成が始まるわけですが、

所詮、人格というやつは、

生まれてから今日まで抱いてきた想念(煩悩、思い煩い)の集まりであり、

移り変わりゆくエゴの一種に過ぎないのです。

誰しもが経験したことがあるように、

自分のエゴに振り回される程、疲れるものはないですよね(・_・;💦

その無意識下にあるエゴである煩悩を表層に持ち出し、

認識し、そして手放すことで、

本当の自己に至れる手段を与えてくれるのが、本来のヨーガであるのです。

大分話がズレちゃいましたが、、、笑。

では、自己が何者であるのか?を教えてくれるこの二元論の先には、

一体があるのでしょうか?

そんなことを考えてみたことはありますか^ – ^?

その先とは、、、

一元の世界なのです。

異なる2つの原理は、本当は別々のものではなく、

+と−は実は1つであるということを示してくれているのです。

愛は、瞬く間に嫉妬へと変わることもあれば、

勇気は、一瞬にして恐れへと姿を変えてしまうこともあります。

つまり、全ては一つであり、調和そのものであり、

全てはバランスなのです。

私達は、人生を通して、この双方のバランスをどう取っていくかを

学ぶためにここに在るのだとは、思いませんか^ – ^?

ではこのバランスは何故重要なのでしょうか?

1番顕著にこのバランスを感じれるものとして、

ヨーガのアーサナにあるシャヴァーサナ、

もしくは日々の瞑想が挙げられますが、

シャヴァーサナとは、瞑想に至る準備であり、

それ以外のアーサナとは、

シャヴァーサナもしくは瞑想のために存在しています。

このシャヴァーサナも、二元の性質を帯びています。

どうゆうことかと言うと、私達は通常、

シャヴァーサナ中、身体の力は当然のように抜きますが、

もう一つ抜かなくてはならないものがあります。

それは、意識の力も抜いてやるということです。

意識の力も抜けて初めて二元は成立します。

本当は意識の力を抜くとそれに連動して身体の力も抜けるようになっているのですが、

私達現代人は何故かこれが苦手な傾向にあるように思ったりします。

要は、意識を力ませたまま、

身体の力だけ何とか抜こうとしているということです。

自身の思考の現れがこの物質界であるのに、

思考をそのままにして物質である肉体だけ何とかしようというのは、まず不可能です。

もし、心地の良いシャヴァーサナに中々入ることができないなぁ~。

と思うことがあったら、これが原因の一つかもしれないですね。

意識の力みを取るとは、シャヴァーサナ中もしくは瞑想中

瞼の裏に思い煩いが浮かんだならば、

それを消そうとしたりしないということです。

その消そうする意志が意識に力みを作るのです。

だから、「今晩の夕飯、何食べようかな?」と思ったならば、

消そうとせず、ただ眺めていればいいのです。

そうしたら、しばらく経ったらその思い煩いは、

勝手に立ち去ってくれますから。

執着は手放すべきものですが、

手放すまでは自身の一部であることを忘れてはいけません。

自身の一部を無理矢理剥がすこと程、苦痛を強いられることもないでしょう。

手放すとは

=自身を縛っているありとあらゆるしがらみから開放してあげる。ことです。

言葉から推測しても、とても、楽であるはずなのに、

その作業に苦痛が生じるというのはおかしくないですか(・_・;?笑っ

手放す作業に苦痛を感じたり、中々実行できないと思ったら、

それは手放す準備を怠っているか、

もしくは、何に執着しているのかを見ずに、

何とか無理矢理、自身から剥がそうとしているのかもしれませんね。

誰でもそうですが、

存在を認められず見捨てられるほど虚しいと感じることはないです。

そんなことを自分にするのだから、苦痛が生じて当たり前であり、

人間の思い煩いの1つ1つにも存在欲求があることを理解しなくてはなりません。

この二元の世界では、合わせ鏡の役割を果たすので、

自分の作り上げてきたものを認識せずして剥がそうとする行為は、

=他人に認められず、捨てられるかもしれないという恐怖を、

逆に、自分にプレゼントしてしまう結果を産み兼ねません。

そうなったら、周りの人に存在を認められたいという思いにさらに駆られ、

自分の内側にある力を全て外側の世界に注ぎ込み、

その注ぎ込んだ対象物に依存し、

内側を空っぽにしてしまう最悪のループに陥ってしまいます。

依存先の対象物(→買い物依存、拒食過食症、

アルコール中毒、外見への異常な執着、薬物依存、

ギャンブル、さらには恋愛における相手への依存、、、etc.)

に明け渡した自分の内面の力は、また回収しないといけません。

とても、面倒ですよね(・_・;💦

なので、

「自分はこうでなくてはいけない。とか、正しくなくてはいけない。

思い煩いを手放さなくてはいけない。」

と思う意識の力みほど、障害になることはないのです。

これは、両極のバランスが崩れることが引き金で、誰にでも起きることであり、

バランスを取ることが、重要な理由もここあります。

本当の意味で両極のバランスを見つけるというのは、

ヨーガのアーサナにおいてならば、陰と陽の間に存在するニュートラルを、

呼吸であるならば、吸う息と吐く息の間の吐息を、

心の在り方で言うならば、ポジティブとネガティブの合間に存在する

静寂で穏やかな心を見つけることであり、

瞑想中ならば、思考と思考の狭間に行くことを指すのです。

何故このバランスの中に、

そして思考と思考の狭間に行かなくてはいけないのか?

…それは、

その狭間が、“自己の本質”の住処だからなのです。

私達は、みないつか、

この狭間に行くという選択をする日が必ずやってきます。

何のために自分が此処に存在するのか?

自分の役割とは?

生きる目的とは?

人間は決して衣食住のためだけに生きてはいない。

その本当の自分を知るために、確かめるために。。。

その狭間に行くための方法を、知識だけではなく、

自身の体験をもって獲得していく手段を、

私達に常に教授してくれているのが二元論なのです^ – ^

長くて、重た~い内容になっちゃいましたが、、、笑。

今日はこの辺でっ♪

また次回は、“宇宙の時間”のお話をしたいと思います^ – ^

いつになるか分かりませんが、、 笑。

では、また次回までっ♪

皆さま、こんにちは^ – ^

blogを開設して、はや4ヶ月…

今日、今から書く記事で、blog第7弾。

分かりきってはいましたが、スローペース過ぎる自分にびっくりです( ̄∇ ̄)笑っ

なので、今日は早速本題へいきたいと思います。

悟りを開いたとされる仏教の開祖であるお釈迦様、

ゴータマ・シッダールタ(仏陀)の残した言葉に、

現代人は、“わたしのもの”に取り憑かれている』というのがあります。

意外と現代人に知られていないかもしれませんが、

仏教の始まりは、ヨーガからきたものであり、

私達ヨギーの経典である『ヨーガ・スートラ』は、

仏教の影響を受けていると言われていますよね。

仏教とヨーガは、歴史上において、お互いに、深い関係を持っており、

そして双方の辿り着く先は、同じく、

この世の全てを支え、存在させ得る一つの真実を悟ること。

そして、その真実の悟りから、私達を遠ざけてしまう原因の一つが、

先程述べた『“わたしのもの”に取り憑かれている』なのです。

この“わたしのもの”とは、、、?

分かりやすく言うと、自分の所有物のことを指します^ – ^

皆さんは、「これは、私のものだ!」

と言えるものは、何個持っていますか⁇

変な質問ですよね…笑っ

頭に思い浮かぶ限り全て数えてみて下さい^ – ^

私の服、私の家、私のカバン、私のスマホ、マット、ダイヤ、車、お金、、、etc…

キリなんてないですよね。

数え切れない程のもの、抱え込めない程のものを、

私達現代人は、沢山所有しているのです。

では、アフリカのサバンナを自由に駆け回る動物達は、

何個、所有物があるのでしょうか?

多分、ほぼ何も所有していないだろう。

サバンナを生き抜くのに何かを所有するということは、

それと同時に多大なリスクをも背負うことになることを、

彼らは本能で知っているからである。

では、昔の人々はどうだろうか?

どれくらい遡るかによって所有物の数は変わってきますが、

大昔であるほど、所有物は少なかったはずです。

農耕民族ならば、一束の草履に、簡易な住まい、

衣類や畑を耕すための工具くらいだったのだろう。

それが時代が進むにつれ、所有物が目まぐるしく増えていった結果、

沢山所有することが、豊かさの象徴であるかのような錯覚に陥り、

そのステータスを求めるべく、名声や権力、人の心ですら、

自分の所有物の対象として扱おうとしてしまうまでに至ったのが現代社会です。

もうこれ以上、その器には何も入らないというのに、

手放すことなく、得ることに尽力する。

入りきらない程に、自分の器をパンパンにしてしまったら、

後は壊れるしかないというのに。。。

そして身体や心、記憶も、自身ではなく、

所有物の一つであることを忘れてはいけない。

この身体や心、記憶、美貌や健康……それらを留め置くことはできない。

それは過ぎ去るもの。あるいは、過ぎ去ったもの。

しかし、私達はそれにしがみついてしまう。

地球上の全ての生物は老いることで、

進化を遂げ、種のタネを絶やさず今日に繋いでいるというのに、

人間だけは美貌、若さを求める。

それは老いていくことの価値、美しさを置き去りにしているということ。

一度手に入れたものを、放すまいとしっかり握り締めることで、

再び手を開くのが難しくなる。

手をただ開いていることは何の力も努力も必要としないのに

「手放したくない、失いたくない」という心の思いがそれを妨げる。

それは、幸せになるために『心』を上手に使っているつもりが、

実は、『心』の中の煩悩が満足するための道具として、

『私』が使われている状態なのです。

だから、ヨーガには、手放すことを恐れてはいけない。執着してはいけない。

始まりがあるものには、必ず終わりがやってくる。

誰かと出会うということは、同時に別れがすでに内包されているということ。

その自然の摂理に逆らってはいけないという大切な教えがあるのです。

なので、日常の中において、何かを所有しようとする時、

それに伴うリスクがあるということを心に留めておきましょう^ – ^

『人生とは選択の連続である。』という言葉にもあるように、

何が自身にとって必要で何が不必要であるのかを識別する時、

間違った選択さえしなければリスクを背負うことはない。

前回のblogでも挙げている食べ物を例にとると、

身体にとって栄養のある食べ物を選択し摂取することは体と心の基盤を作ります。

反対に偏った栄養のない食べ物を選択し摂取することは、

その基盤を揺るがします。

加工食品や添加物ばかりの食事、

ファーストフードのような食べ物には栄養素があまり含まれていません。

そのため、沢山摂取しても常に体が栄養を欲している状態になります。

常に何かを食べていたい状態がこれです。

食べても食べても身体も心も永遠に満たされることがない。

まさに地獄の無限ループです。

少し話が飛びますが、先日、理学療法士さんのセミナーに参加した時、

衝撃的なお話を聞かされました。

今の日本女性の流産率です。

年間400万人が妊娠するというのに、

そのうち産まれてくるのは100万人程度。

残りの4分の3は、望まれない妊娠もしくは流産だそうです。

そしてその流産の原因は、母体の健康状態に問題があるというお話でした。

身体にとって本当に必要な栄養素を摂取せず、糖質や脂質を過剰に摂り過ぎた結果、

食べても食べても身体は栄養失調の状態に陥ってしまいます。

そんな中妊娠すると、赤ちゃんは、

ただでさえ栄養失調のお母さんから、栄養素を奪わなくてはならない。

どれ位奪うのかというと、

1gを3000gまで大きくする栄養量、つまり単純計算で3000倍です。

そこで赤ちゃんは考えるのです。

お腹の中にいる時から、赤ちゃんの脳は、大人の脳の70%は作られます。

だから、喋ることは出来ませんが、考える力はすでについているのです。

そして、赤ちゃんにとっての優先順位の一位は自身の身体ではなく、

お母さんの命なのです。

このまま自分がお腹の中にいて、栄養を奪ってしまうと、

お母さんは死んでしまう。

そう考えた赤ちゃんが取る行動は一つしかありません。

「じゃぁ、私が出て行こう。。。」

それが“流産”の原因の一つなのだそうです。

心の欲を満たすための選択を続けた先に背負うリスクの一つですね。

もっと日常的なことで例えを挙げると、

必要もないのに、いつか自分の口が寂しくなった時用のお菓子を、

買い溜めておく選択をしていないですか?

1度着ただけで、タンスの中に眠っている服は何着ありますか?

そして、それを十分に使用もせず捨てたりはしていませんか?

それは、物事を消化せずに排出(捨てて)しまっていることと同じなんです。

心の欲とゆう奴は、

いとも簡単にものの本質を見抜く力を私達から奪い、

本当に大切なものとそうでないものの識別能力を低下させてしまう。

失ってから気付くでは遅いとゆうのに、

失ってからでしか気付けない心のシステムを自分で構築してしまっているのです。

自分の思考の現れが、この“現実”と呼ばれる世界であることを、

私達は、忘れてはいけない。

そして、その心のシステムを変える一つの有効な手段として、

身の回りの必要のないものを一度整理整頓してみるのもいいかもしれないですね^ – ^

日本には大掃除という、素敵すぎる文化があります。

自分の周りには、一体どれだけのものがあり、

それが必要であるのかそうでないのかの再認識をさせてくれるその作業は、

本当に自分にとって必要であるのか、そうでないのかの識別能力を

再び高めてくれます。

必要のないものを捨てない限り、新しいものは入ってきません。

それは精神面にも言えることで、

必要なものを取り入れ、いらないものを手放すという行為は、

過去へのしがらみや、いらないものを手放せさせてくれる

とても有効な手段になるのです。

ヨーガの練習においても、中々上達しない。瞑想に入りにくい。

と思うことがあったならば、

日常の自分を抱えたままでいるからかもしれないですね。

自分の内側にある過去へのしがらみ、自分の社会的立場、

色々な雑念、たくさんの執着や煩悩がその妨げとなっているのです。

ヨーガ・スートラ第2章-47にある

緊張を緩め、心を無辺なるものへ合一させることによってアーサナは熟達する。

と書いてあるように、

何事においても、上達する人というのは、

自分の内側にも広大無辺なスペースを認識できる人。

つまり、心の中が整理されていて

物事をスムーズに処理出来るスペースが確保されていることが、

ヨーガの練習において何よりも大切であるのです。

決してアーサナだけをとり、呼吸法だけを身につけ、

自己満足の世界に終わるものではなく、

自己の精神的成長、人間力そのものを大きく高次な次元へと

アップグレードさせてくれる最強のツールがヨーガであり、

ヨーガの醍醐味とはその先にあるものです^ – ^✨

もし、たくさんの処理し切れない思いがあるなぁ~。と思った時は、

是非、身の回りの整理整頓から始めてみて下さいっ♪笑っ

きっと軽くなってスッキリします^ – ^

そして、身体も思い通りに動かせれるようになるでしょう^ – ^✨

今日はそんなお話でした。

ではまた次回までっ♪

またまた久々のblog投稿となりました💦笑っ

 こんな感じで、まったりこれからも宜しくお願いします( ̄▽ ̄)笑っ

アーサナだけがヨーガではないことは、皆さんご存知だと思いますが、

今日は本題に入る前に、ちょっとだけ脱線して、

アーサナの本来の目的についても確認のため、お話しておきたいと思います^ – ^

ヨーガは、決してアーサナだけをとり、

そのアーサナの表面的な美しさを身体で表現することではありません。

もしそうであれば、それは単なる体操、エクササイズでしかなくなります。

それはそれでいいかもしれませんが、

それでは、ヨーガ本来の目的を果たさなくなってしまいます。

何故ヨーガのアーサナは、

呼吸をあえて乱すようなダイナミックなポーズが多いのでしょうか?

そんなことを考えてみたことはありますか^ – ^?

そしてその答えは、身体を強靭かつ柔軟に、健康に、するためである。。。

と、何の疑いもなく、私達は思ってはいないだろうか?

たとえその答えに根拠がなくとも、

私達は、ヨーガをする前から、

それが答えであると、設定してしまってはいないだろうか?

でも、もし、「本当はそうではないんだよ。」

とヨーガ行者から言われたら、、、

「えっ?そうなの?」と、心の中で揺らぎが生じますよね…笑っ

私達の根拠のない心の中の固定概念が作り上げてきたものは、

今日では確固たるものであっても、明日には、簡単に反故となってしまう。

それどころか、時には、真実を覆い隠してしまい、

何が自身にとって、大切で何がそうでないのかの識別すらわからなくさせてしまう。

ヨーガの本来の目的は、そこにあります。

心の軸を乱すようなことが起こっても、

決してブレない。

気が乱れない。

穏やかで落ち着いている。

呼吸をあえて乱してしまうような厳しいアーサナとは、

そんな自己を確立するために、

身体も呼吸も心も静止させるよう練習を通して培うためにあるのです。

それは、決してそのポーズが出来るか出来ないかで判断するものではない。

出来る出来ないは結果でしかない。

求めている答えは、結果の中には存在しない。

前回のblog記事でも書きましたが、

答えはいつだってプロセス(=今)の中にしか存在しえないものです。

昔の人達は、私達現代人よりもずっと、身体が強靭で柔軟だったのだろう。

だから、ヨーガのアーサナは、ある程度とれるのが大前提だからこそ、

出来るとか出来ないとかでアーサナを判断することもなければ、

それだけにこだわった練習方法もとってはいなかったと思います。

そして、結果しか見ないことが何よりも固定概念を生み、

固執から執着を生むことを

誰かに教わることなく悟っていたのではないかと思われます。

しかし、利便性の高い今日では、

昔の人のように、自己の内側と向き合うことも、

身体を大いに使うことも減った分、

同じアーサナひとつとった時の質には、大きな差が生まれ、

同じ練習量では得られる学びの量も全く変わってしまいました。

そんな私達現代人にとって、アーサナの練習以外で肉体の質を上げるには、

その肉体を作る材料となる『食』を見直すということが、

大切な手段のひとつになってくるのです^ – ^

はいっ!ここで、やっと、今日のテーマである『食』の登場です!笑っ

では、ここから本題っ♪

ヨーガの教えに、

“腹の4分の2は 新鮮な食物で満たし

4分の1は 綺麗な水で満たし

また残りの4分の1は 神に捧げものをするために 空けておきなさい”

というのがあります。

簡単に言うと、腹八分目がベストだよ‼︎っていうことです^ – ^笑っ

胃袋の中を、食べ物でいっぱいいっぱいにしてしまうことは、

肉体に多大なる負担をかけてしまいます。

本当はそんなに食べ過ぎる必要はない。

肉体に多大な負担かけてでも、美味しいもので欲を目一杯に満たすその行為は、

=つまり、自己に優しく在れないということ。

自身に思いやりを持てない人は他人にも思いやりは渡せません。

もちろんもらうことも。。。

そもそも1日3食も食べる文化はいつ頃定着したのだろうか?

アフリカでは2日に1回食事に有り付けたらいい方だったりもするというのに。。

時を遡れば、それは戦後のお話であり、日本は敗戦国でした。

敗戦国は飢餓を知っています。

国はそんな飢餓状態から救うために、

国民の健康である基準を一日3食、食べることに定めた時からの文化だそうです。

あの頃は、まだ経済大国となる前であり、貧しかった国民は、

きっと毎日汗水を流し、労働し、今日の日本の土台を作ってくれていたのでしょう。

でも、今日の私達は、戦後と同じく一日3食も食べなければならないほどに、

汗水を流し労働しているだろうか。

世の中が便利になり、乗り物が足の代わりとなり、

重労働も機械が担い、

朝から夜まで椅子に座ることが増えたならば、

食べる量は自ずと減っていくのが理に適っているはずなのに、

食は増え、そして栄養過多になるほどにまで豪華となっています。

美食のために他の生命を奪い、

吐いて捨ててでも食べる程に過剰な欲望を生み出している現状。

肉体を維持することは生命として不可欠なことですが、

私達人間は、それが行き過ぎている。

それは単なる肉体の維持という範囲をゆうに超え過ぎているのです。

そして、過剰に行き過ぎた結果、

人生全体が食べるためにあるかのような大きな錯覚に陥り、

欲望に振り回されるだけの無目的な生命存在に成り果ててしまう。

私達は生きる目的のために食べるのであって、

決して食べるために生きてはいないのです。

そして昨今、断食が健康にいいとされる時代にまでなりました。

断食が身体に良い理由は色々ありますが、

シンプルに考えて、

単純に“食べ過ぎ”だということが大前提にあるからですよね(・_・;💦

現在、私は、週に2~3日程食事を摂らない生活スタイルを送っています。

って言うと、びっくりされることもありますが…笑っ

でもすこぶる健康です( ̄▽ ̄)笑っ

(あっ!摂るべき栄養素はしっかり摂った上で断食してます👍)

そうすると、シンプルに水を美味しく感じられ、

本来、食材そのものの美味しさを感じ取れる味覚の感覚も戻ってきます。

自分にとって心身ともに、

何が必要で何が不必要なのか?の分別が出来るようになり、

苦もなく、欲に振り回されなくなる。

そして、何よりアーサナや呼吸法、瞑想の質も、断然違ってきますっっd( ̄  ̄)

そう、身体の内側の声を聴くことは、実は驚く程にシンプルで、容易なのです^ – ^✨

断食をオススメするわけではないですが、

何気なく過ごす日常の中で、食の本来の大切さを心に留めた上で、

“食事をとる”ことと向き合うだけで、

それはヨーガにおいて多大な恩恵を齎してくれるのです。

そして、どうしても、過剰に食べることを制御出来ないならば、

何故、我慢出来ないのか?どうして、制御出来ないのか?

ということを、とことん追求してみて下さい^ – ^

その疑問に対して、答えれないことがなくなるまで

追求しきった頃には、自然と制御出来るようになってますから^ – ^✨

人間の寿命を80年として、

80年間途絶えることなく一体の肉体を維持するのに、

その足元にはどれだけの命が犠牲となってくれているのだろうか?と考えると、

畏怖の念と感謝の気持ちで、お腹がいっぱいになる!

と自然に思える位が、食材豊かな国にいる私達にとっては、

調和のとれた心の在り方かもしれないですね^ – ^

贅沢をすることと、幸福は全くの別物です。

喉が渇いた時、その喉の渇きを癒してくれるのは、

5万円もする高級なワインではなく、シンプルに水なのです。

それは、物も欲も全てのことにおいて、

決して持ち過ぎてはいけないということ。

いつだって、新しいものを受け入れる心の余地を、

その余白のスペースを、

私達は常に持ち合わせておかなければならない、ということ。

そのスペースの大きさは、

そのままその人の持つ“心の器”の大きさにも比例します。

大分話がズレちゃいましたが、、笑っ

身体も心も、それを構成する材料によって、質は大いに変わります。

もしヨーガの練習をしていて、

中々前に進めないなぁ~と思った時、是非ひとつの参考にしてみて下さい^ – ^✨

今日はそんなお話しでした。

では、また次回までっっ♪

八支則~足るを知る~

2017年4月21日

皆様、こんにちは^ – ^

めっちゃ久々のblog投稿となりました…(・_・;💦

ちょいと、サボりすぎましたね…( ̄▽ ̄;)

なので、早速、本題にいきたいと思います…。笑っ

今回は、ヨーガに携わる者でしたら、

誰しもが必ず最初に勉強するであろう『八支則』について、書きたいと思います^ – ^

八支則と言えば、、、

ヨーガを行う際の基礎を私達に説き、そして奥義となる8つの道標です。

仏教で言う『八正道』にあたるのですが、

一応、確認のために八支則の内容を簡単に挙げておきます↓↓↓

◆ヨーガ八支則◆

1.Yama:禁戒。日常生活で行なってはいけない5つの心得~

     ・Ahimsa=非暴力。

     ・Satya=誠実。正直。

     ・Asteya=不窃盗。

     ・Brahmacharya=節制。

     ・Aparigraha=貪欲でないこと。

 2.Niyama:歓戒。日常生活で実践すべき5つの行い~

     ・Saucha =清浄。

     ・Santosha=知足。

     ・Tapas=苦行。精進。自己鍛錬。

     ・Svadhyaya=経典読誦、学習。

     ・Isvarapranidhana=自在神記念。

3.Asana:坐法の確立

     =アーサナとともに意識を体の内側に向けていく。瞑想への準備。

4.Pranayama:呼吸法・調気法

      =瞑想を深めるために呼吸を深めること。呼吸のコントロール。

5.Pratyahara:感覚の制御

      =外側に向いている五感の知覚を、内側に方向づけ、内的感覚を高める。

6.Dharana:一点集中・精神統一

      =意識を特定の対象物に長時間留めること。

7.Dhyana:瞑想

      =意識が積極的な努力なしに一方向に深く集中している状態。

8.Samadhi:三昧・悟り

      =深い瞑想と融合して起こる悟りの境地 。至福の喜び。

ざっとこんな感じです。

今日は、その中でも 2.Niyama(ニヤマ)に出てくるSantosha(サントーシャ)=知足

について、詳しく見ていきたいと思います✨

言葉の通り、知足の意味は、『足るを知る』です。

哲学の勉強をしていてもプラクティスをしていても、

これがヨーガのゴールなんじゃないかな~と思うくらいなので、

いつもこれについて考え出すと、底無し沼にハマってしまったごとく、

時間を費やしてしまうのですが…

さて、この『足るを知る』の意味は下記の通り↓

・身分相応に満足することを知る。足る事を知る。

・自分がはじめから満たされている存在であるということ。

・満足することを知っている者は、心が豊かになる。

etc…

こんな感じの意味になりますが、、、

はい。誰もが、そんなこと知っとるちゅ~ねんっっ。て感じですよね。。笑っ

でも、与えられた環境を難なく受け入れ、

そして不満一つなく満足し、全てに心より感謝をする。

というのは、今日、社会の中において、

それは高次元な自己の在り方であり、

私達人間が、“人間力”を極めた究極の先にある叡智そのものなのではないか

と感じたりします。

そして、少しでもその『足るを知る』境地に至るためには何をどうしたらいいのか⁈

について、底無し沼の奥から、一つ手段を導き出したので、

今日は、記録用として、ここに残しておきたいと思います^ – ^

さて、『足るを知る』の境地に至る手段…
結論から言うと、

それは、“心を今に留める”ことに尽きる。 

シンプルにこれだけで十分。。。

それは、上記の八支則を例に挙げると、

6番目に出てくる“一点集中の心”を培うということです。

集中の心は、揺れ動く心を多大に癒す効果を持っています。

私達の揺れ動く心は、放っておいたら、

止まることなく、ずっと物思いにふけっています。

今日の夜何を食べようか?と思った次の瞬間には、

昔のあの時のあの頃は良かったなぁ~。と過去に思いを馳せてみたり、

かと思いきや、まだ訪れぬ未来に期待と不安に心を寄せてみたり…笑っ

どうでしょう…⁈

自分が心の立場に立った時、けっこう疲れませんか(・_・;?

少し先の未来に行かされたかと思いきや、次は何年も前の過去に行かされたり、

でも次の瞬間には、何年も先の未来へと走らされる。。。

もはや、徒歩ではなく新幹線乗せてくれーー!ってなります。笑っ

そりゃ、疲れるわ。って話です(・_・;笑っ

心を休めるとは、ヨーガをしている時間であるならば、

その時間だけはマットの上にあなたの心を置き、

「今だけはここにいててね。休んでね。と、

「何処へも行かなくでいいんだよ。」と、

自分の心を今この瞬間に留めさせてあげること。

これが世に言うマインドフルネスってやつですねっd( ̄  ̄)

身体の疲れは睡眠で取り除けますが、心の疲れは睡眠では取り除けません。

寝ても寝ても疲れが取れない人は、身体ではなく心が疲れを感じている状態です。

そう、
集中することで初めて心は癒されるのです。

だから、没頭できる何かを持っている人は、心の切り替えが上手なんです^ – ^

私の好きなスピリチュアル家の言葉をお借りすると、

今この瞬間には、期待と不安の広がる未来も囚われた過去も存在はしない。

在るのは、今という時間の連続だけ。

未来(=結果)を創るのは、

今この瞬間の行動(=原因)であるということ。

少し視点を変えて言うと、、、

全ての結果(未来)を生む原因(行動)は、

今、ここで作れる。自分が作る。

ということ。

それが、一点集中の心。

そして、一点集中の心が私達にもたらしてくれる産物…

それは、

結果より、今日の自身の努力そのものを愛せるようになるということであり、

まだ訪れぬ結果よりも、

今日、ここに在れることに感謝を抱けるようになるということ。

今この瞬間の自分の全てを愛せるようになるということ。。

そうして、自分の美点を見つけ大事に出来て、初めて人は、

他人の美点にも気付けるようになるのです^ – ^

この気づきこそが『足るを知る』なのです。

人生は、後ろ向きにしか理解できないが、私達は、前を向いてしか生きれない。

未来の自分をどれだけ成長させれるかは、

過去の自分に思いを馳せることでもなければ、

まだ来ぬ未来に思いを巡らせることでもない。

今という現在地の認識なしに、目的地へは到底辿り着けない。

求めている答えは、まだ見ぬ結果の中ではなく、いつだってプロセス(=今)の中にしか存在しないということ。

だから、自分にないものばかりを数えるのではなく、

今自分にあるものを数えるのです。

必要なものは、全て最初から持っている。

初めから満たされていることを知る。(=足るを知る)

それを知っている人の心の軸は、実にブレない。

そうして、心の在り方を今に留めたその先には、

いつしか苦手だったアーサナも、心地よくとれるようになり、

嫌いだった物事へも、難なく取り組める自分に出会える日が必ずやってきます。

この世とは、そう出来ているのです^ – ^

今日はそんなお話でした^ – ^

では、また次回までっっ♪

皆さま、こんにちは^ – ^

久しぶりの投稿となりましたd( ̄  ̄)

はいっ…ちょぃとサボりました…(・_・;

そして、サボった分…また文も随分長なりました…笑っ

暇つぶしにはちょうどいい長さかもしれないですっ👍笑っ

では、本題です^ – ^

過去ブログで、「カルマの法則~行いと選択」について書きましたが、

(カルマの法則、わからない方は、過去ブログ→「カルマの法則~行いと選択~https://yu-u.yoga/%e3%82%ab%e3%83%ab%e3%83%9e%e3%81%ae%e6%b3%95%e5%89%87%e8%a1%8c%e3%81%84%e3%81%a8%e9%81%b8%e6%8a%9e/」をご参照下さい。)

今日は、もう一つの法則~ダルマの法則(調和と秩序の法則)についてです。

“カルマの法則”と“ダルマの法則”

この双方も、二元の質を帯びており、

(二元のお話についても、詳細は過去ブログ→「二元論~この世の表裏~https://yu-u.yoga/%e4%ba%8c%e5%85%83%e8%ab%96%e3%81%93%e3%81%ae%e4%b8%96%e3%81%ae%e8%a1%a8%e8%a3%8f/」を参考に。)

別名:調和と秩序の法則”と言われ

(他にサンスクリット語で、“人生の目的”の法則とも言われる)、

混沌とした世のありとあらゆるものの均衡を司り、

人智を超越したもっとも宇宙の美しい法則の一つです。

今回はこの法則をまずは具体的な例を2つ挙げて、見ていきたいと思います^ – ^

・1つ目~『生態系を管理するブナと動物の関係』~

→鹿はブナの実が大好物で、

これを食べることで冬の間に寒さから身を守る脂肪の層を作る。

ブナの木は3~4年間に1度、実を結び、

その寿命が400年だと想定すると、

少なくとも60回は実を結ぶことになるが、

これだと子孫1本を残せるか残せないかのギリギリの数なのである。

だが、なぜブナは400年に60回しか実を実らせないのだろうか? 

それは鹿の数を増やしすぎないためである。

腹を空かせた鹿が大量にいすぎると森を丸裸にする恐れがある。

これでは苗木が生き残ることができない。

そのために木々は協力して、

数年間控えたのちに、一斉に実を実らせる。

鹿にとってはまさにご馳走であるが、

毎年これを楽しむわけにはいかない。

もしかしたら、ブナの木々達は鹿にいつ餌をやろうか?

と会話をしているのかもしれない…笑っ

・2つ目~『ほんの少数のオオカミが自然に奇跡をもたらすまで』~

→ある国立公園にてオオカミのいなくなった森に生息する鹿の数は、

捕獲される恐れがないため増え続け、

公園内のほとんどの植物が食べつくされてしまうという事態に陥った。

しかし、ほんの少数にも関わらず、

鹿を捕食するオオカミたちが戻ってきた事で、

鹿の数が減り、植物たちが息を吹き返したのだ。

たった6年間で、木の高さが5倍になり、

裸同然だった谷あいの側面はあっという間に木々が生い茂る森となり、

多くの鳥たちが生息し始めた。

木が増えたことにより、

生態的地位(自然環境の中である生物が他の生物との競争などを経て獲得した、

生存を可能にする条件がそろっている場所)が増え、

オオカミの食べ残しを求めて、

カラスや鷹、熊さえも個体数を増やしていった。

さらには、オオカミは川の特徴までも変え、

全てが野生の生物たちにとって好ましい環境となり、

ここに、本来あるべき自然のサイクルが出来あがったのだ。』

↑この2つのお話し、どうでしょうか^ – ^?

絶妙とも言えるブナの木が持つ自然の調整力に、

オオカミの生態系だけでなく

巨大な土地の自然地理学さえ変えうるその力こそが、

ダルマ(調和と秩序)なのです。

それは、自然界にのみならず、人間界も然りで、、、

私達は、

この世界全体を調和させる秩序の法則の上に生かされており、

個人とは、このダルマ(=全体の調和)のために

それぞれが果たすべき“義務”を担っている存在で、

それ以上でもそれ以下でもありません。

それは、全ての“偶然”を“必然”であると定義付けられる力を持ち、

この世でもっとも不思議な運命である“ご縁”を運び、

さらには、何が正義で何が悪であるのか?の、

人間の倫理を作り上げている土台にも成り得る。

そして、“自然の流れ”を規則とし、

その規則からはみ出したり、はみ出そうとした時に、

働く神の力とも解釈できます。

まぁ、この自然の流れから、やたらとはみ出したい願望強すぎ族が、

人間に当たるわけなのですが…笑っ

なんせ、人間は、この世界で、唯一“自由意思”という

素晴らしすぎる神の力を具現化した万能アイテムを与えられた存在なので、

そりゃぁ

…自分の欲望のために使いたくもなるわな…って話です。笑っ

やりたいと思うことを選択し、行為することができる反面、

たとえ、果たさないといけない役割があったとしても、

他の生き物と違い、

それを放棄するという選択ができてしまうこの力は、

要は、思考を現実化する能力に、

あまりにも長けているということです。

だからこそ、その力に振り回されないよう、

コントロールするために、ヨーガの道があり、

この力が、あくまでダルマ(調和と秩序)のために与えられ、

ダルマと共にしか存在しえないものであることを

学びとっていくわけなんですね^ – ^

そして、それを学ぶに当たりもっとも大切で、

難しいとされるのが“離欲”=心の欲を手放すというこです。

よく説法で、「執着を手放しなさい~。」とかを聞くのですが

(私の一方的なイメージです。笑)

内心「そんな簡単にできるかー!出来てたら、苦労しとらんちゅ~ねんっっ!」

って思ったりしませんか(・_・;?笑っ

どうやったら、手放せるのか?を

教えてくれっ!って思ったりするのですが、

…まぁ、そこは、

自分の脳をフル回転させて考えろって感じなんでしょうね…笑っ

でも、意外と考えたら、とてもシンプルなんです👍笑っ

一つは執着を手放したかったら、

執着する対象がなくなるまで、とことん追求しきる!です。

(これが良い形での現れが、何かに抜きん出て天才的な人なんでしょうね…

アインシュタインとか…( ̄^ ̄)ゞ)

でも、これは注意散漫な私達現代人には

少し難しいことかもしれません。

追求しきる意思の強さが身に付いていなかったり、

対象物を追求しているのではなく、

それを通して、実は自分の心に執着してしまっていたり、

そして自己の内側の理解度が低いと、

それさえに気付かなかったりするという致命的なミスを犯しかねません。

そんな時のもう一つの方法に、“与える”という選択があります。

アインシュタインの有名な言葉に、

人の価値とは、その人が得たものではなく、その人が与えたもので測られる。

とあります。

何かを得たい、人の注目を得たい。

金銭を獲得したい。地位と名声を手に入れたい。

といった思いは、

自己の心の欲を満たす時に行われることが多いです。

その自分の欲を満たすためだけに働く行為が執着を生むのです。

でも得たいと思う対象が、

人の注目であれ、金銭のような物質であれ、

形有るものはいつかは無くなり、

始まりがあるものには必ず終わりがくるのです。

なのに、私達人間はなくなったその穴を埋めるべく、

また得るために行為をする。

…まさに地獄の無限ループです。

そう、地獄ってどこ?ってなったら、つまりそれが地獄なんですね…

心の欲に振り回されるためだけに

与えられた生が費やされていく事ほど、

虚しいものはない…

上記のブナの木とオオカミの2つのお話も、

ベースにあるのは、“与えている”ということです。

私の好きな文面に、

木々も鳥も動物も、全て他のもののために生きている。

なぜロウソクは溶けゆくのか?それは光を与えるためである。

なぜ香は燃えて灰になるのか?香りを与えるためである。

なぜ樹木は伸びるのか?果実と花を与えるためである。

およそこの世界に、生物・無生物を問わず、

自分だけのために生きているものなどあるだろうか?

ーーーない。

ならば自然の全てが犠牲だというのに、

人間だけが利己的な生を送ってよいものだろうか?

我々は与え、与え、かつ与えるためにここに在る。

我々に与えられて然るべきもの

ーそれは、我々が思い煩うまでもなく、

与えられるべくして与えられるのだ。

(インテグラル・ヨーガ~パタンジャリのヨーガ・スートラ1章–15より一部抜粋)』

と、あります。

そう、“与える”ということが、

1番執着を手放させてくれるのです^ – ^

何故なら、個は全体の調和のために存在し、

それを“与える”という義務で役割を果たしているからです。

そして、私達が何か行為をする時、

必ずその根底には“動機付け”が必要です。

それが、ただ欲を満たし対象とするものを得たいための動機付けであるのか?

ということを、自身に問いかけてみてあげて下さい^ – ^

それが、“気づき”となり、自身の行為と選択を変える機会を

多大に私達に提供するだけでなく、

ダルマ(全体の調和)に一致した自己の在り方、

生き方を享受してくれるのです。。。

というお話でした^ – ^

最後までお付き合い頂き、ありがとうございましたっっ^ ^

次回こそは、端的にまとめあげますっっd( ̄  ̄)…笑っ

こんにちは^ – ^

夕雨です。

ブログ…継続出来てます…笑っ

継続の力は、偉大なりですねっっ♪

(↑たかだか週一の更新のくせして、大げさ…w)

あっ…
ちなみに、今回も、書いてみたら、超長文になりました(・_・;

週一にしたら、その分やっぱ長なりますね(・_・;

皆さま…めげずに、是非、最後までっっ👍笑っ

冒頭の写真のにゃんこは、知ってる方も多いと思いますが、

うちの猫の妹分、名前は、ミィ-ですっ♪

宜しくお願いしますっ(=^ェ^=)

さて、ブログ第三弾では、『二元論』について、書きたいと思います^ – ^

ヨーガを学ぶにあたり、この哲学的思想に対する熟慮は、

私達を大きく成長させてくれる最も重要なツールなのではないかっっ⁉︎

と個人的に思う程です。

はじめてこの言葉を聞いた方も、そうでない方も、

まずは基礎知識から…笑っ

➡︎『二元論』とは?

というところから、掘り下げていきたいと思います。

〜ヨーガにおける二元論〜


・・・『サーンキヤ(=考え合わせ)哲学に、立脚しており、

宇宙の構成が、精神原理“プルシャ”と物質原理“プラクリティ”の

究極的には、このたった2つの原理によって峻別される、という考え方のこと。

先人のお言葉をお借りして言うと、

この2つの原理のうち、

一方に探求可能な対象がまとめて収まっており、

その収まる側の究極原理をプラクリティ、

そして、唯一それに属さないもう1つの原理がプルシャ。

世界はプルシャの観照を契機に、

プラクリティから展開して生じたと考えられている。』

…………以上。ヨーガにおける二元の考え方は、

ざっと説明すると、、、こんな感じ…笑っ

↑ちんぷんかんぷんな方…すみませぬ…笑っ

(こうゆうちょっとした小難しいことを詳しく知りたい方は、

是非、書店まで本を一冊選び、読んでみることをオススメ致します👍笑っ)

そしてここから先は、難しいことは抜きにして、

私の主観を全開にして、噛み砕きまくっていきたいと思います^ – ^笑っ

さて、この“二元”という考え方…

わかりやすくいうと、

この世の事物は、全て異なる二つの原理から成り立っている。

ということ。

何をもって二元とするかは、色々ありますが、

サーンキヤの二元論という枠をとって、ただの二元で定義するならば、、、

例えば、

男性と女性、明と暗、出会いと別れ、離欲と執着…などなど

私達は、男性がいるから自分のことを女性と認識でき(逆も然り)

“明るい”を知っているから、“暗い”を認識できる

このシンプルな考えは、物事だけに留まらず、

事象の中にも存在し、

それは、誰かと出会った時点で、そこには別れが存在し、

何かを手に入れるということは、同時に、何かを手離すということが

すでに内包されているということ。

自然の摂理そのものではありますが、私達人間に限っては、

手離したくない!という欲を働かせることが出来るがために、

結果、それが自分を苦しめる原因となり、

自己の内側をいっぱいいっぱいにしてしまうことがよくあります。

だからこそ、その内側を整理するために、瞑想をし、

そして、心の中を綺麗に掃除し、

新しい事象に対処出来る心のスペースを確保するのがヨーガの道でもあるのですが、

その心のスペースが広い人のことを

とりわけ、“器の大きい人”とも言います。

話は、少し逸れましたが、

要は、二元というやつは、一方を再認識するために、

もう一方が必ず存在するということ。

この二元という考えの中においては、例外は存在しえません。

ヨーガの道である自己の本質を見つける。。。という

この自己の本質も、再認識するために、その真逆の性質が与えられているのです。

それが、生まれてから今日までの私達の抱いた“想念の集まり”であり、

『人格』を形成する正体でもある“煩悩”なのです。

ヨーガ・スートラ(ヨーガの教科書)を読んでいる方は、

ここでピン!とくると思いますが、スートラ1章-2に出てくる、

“ヨーガとは心の作用を止滅することである”

とはまさにこれのことですね。

本質を知りたければ、自分で作り上げてきた

その煩悩を取り払えっっ!そうすれば、自ずと本質が見えてくる。。。

というやつですっ👍

ここで、面白いのが、例外はないということは、神も例外ではない。

ということ。

そう、二元というやつは、神にも当てはまるのです。

キリストの考えでは、神のもう一方は、、、

………人間。という考えがあります。

要は、神だって、神しかいなかったら、

自分を全知全能の神であると認識できないので、

神は、自分を神と認識するために、人間を作った。

とも言われていたりします。

(このオカルトな感じ、ついてこれていますでしょうか…(・_・;⁉︎笑っ)

確かに、人間と神は逆の性質を持っている。

私達人間は、神の真似事をします。

命のないものしか作れない。

でも神は命あるものしか作らない。

それは、とても精妙で完璧で、まさに不完全な人間とは全てが真逆で、表裏一体に感じる。

この世は、コインの表と裏のように、

2つの性質を合わせ持つ。

一方、私達人間は、その二元のうち、片方にしか目を向けないという傾向がある。

表と裏を全て知って、はじめて対象とするものの本質を理解できる。

はずなのに、一方だけを見て、物事の判断をしてしまったり、

そして、その全てを理解したかのように錯覚する。

それではいつまで経っても、事物の全体を把握出来ず、

“真実”のもう一方である“無知”に惑わされ、

結果、この世の何が真で、何が嘘なのかの識別が出来なくなる。

私達がすべき事は、アーサナの練習中ならば、

伸ばそうとしている表面的な力の中にある反対の、縮もうとする方に目を向け、

肉体が変わらないなら、その原因を心に探して見る。。。

日常の中でなら、

物事につまづいた時、いつでも、裏を見ることの選択を出来るように、、

その識別能力を培う道が、本当のヨーガの道であるのです。

大昔、今の時代のように、物が溢れかえり、

携帯とか、ゲームとかがまだなかった頃、

人間は、きっと、余った時間を、“自己の内側について考える”

ということに使っていたのでしょう。

しかし今日では、その時間は、随分と少なくなったために、

自己の内側を理解する能力が落ち、

変わりに、自己の外側の世界が、発展した結果が、

タントラ(→より具体的な技術や技法によって真実を悟る)”と呼ばれる、

今の時代に至っているので、

この世の大きな流れとして見たら、これはこれで、

二元のバランスが取れているようにも見えたりしますね^ – ^

でも、ここで、気付いて頂きたいことは、

考える時間は、あるのに、自己の内側を考える時間だけは、ない…。

という矛盾です。

本当は、外の世界に自己の価値を探し求めた分だけ、

その時間は存在するのです。

なので、是非、日々のプラクティスに、少しだけ、内側を考える機会を設け、

そして、この二元の性質の双方を見出してみてあげて下さいっ♪

きっと、プラクティスの質が、抜群に上がるりますっっ^ – ^✨

というお話でした。

…以上っっ!

大分長くなりましたね。笑っ

次回は、もうちょい上手い事まとめますᕦ(ò_óˇ)ᕤ

では、また次回までっっ🙏

こんにちは^ – ^

夕雨です。

ブログ1週間に1回更新の心が、もうすでに萎えつつある今日この頃です(まだ2回目で)…w

ブログをちゃんと更新している方々、めっちゃすごい。

見習って、続けますᕦ(ò_óˇ)ᕤ

なので、読んで頂いている方々、

「あれっ?最近ブログ更新ないなぁ~。」とか思ったら、

「更新止まってるでっっ‼︎」と、私にご一報を。。。(人任せ…www)

さて、今日は、私の大好きな

カルマの法則”について書きたいと思います。

この法則の存在なしに、ヨーガの道は歩めませんっっ‼︎

生きとし生ける全てのものを拘束し、

私たち人間を、まさに人間たらしめている

その法則の持つ力は、絶対的であり、絶大である。

きっと、世の中の全ての人が思う(全てかどうかはわからんけど)疑問の一つである、

・「自分とは何か?」のような、“この世に生まれ落ちた理由”や、

・「何でこんな辛いことばっかり起こるの?」とか、

・「変えたい自分、物事が、思うように中々変わってくれない」

・逆に、「歯車が噛み合い、勢いよく回りはじめるように、

急に物事が、トントンと運ばれていく」など、

物理的には説明が付かないけど、

ちっぽけな人間という『個』の力ではどうにもならない、

目に見えない大きな力(避けられない運命がこれだったりする)が、

働いているとしか思えないようなことを、

根本から解決へと導いてくれる絶対的法則がこれに当たります。

地球上に住まう人々の中で、

この法則による拘束を受けない人は、ほんの一握りしかなく、

言い換えれば、この法則からの縛りを解くために、

私たちは今この瞬間も、生を経験しているわけなのですが、

そんな基礎知識知っとるわ。と思った方、すみませぬw

そんな基礎知識がまだまだ続きます…w

(書き手の私が基礎しか知らないからです…w)

カルマの法則“を日本語に訳すと、

『原因と結果の法則』や、『行いと結果の法則』と、訳されることが多いです。

⬆︎これだと、少し親しみが湧くかな…(・_・;?

ダイジェストに要約すると、

何か行いをしたら、その行いに見合う結果が、

必ず返ってきますよ~ってやつです^ – ^

ちょっとダークな感じに言うと、、、

自分のやったことのツケを、他人は払ってはくれません。(←当たり前ですが。)

自分のやったことのツケは、自分で払うしかない。

今世で払うか、あるいはあの世か来世で払うかだけの話し。

精算されるまで、生をまたいででもツケは追ってきます。

という感じのことです^ – ^

自分だけ、おとがめなし~♪とかは、まずあり得ないわけなんですねっ。

その一時の快感やエゴを、

後で必ず返ってくるツケを払ってでも得る価値があるのか⁈

ということは、カルマをちゃっちゃと精算するための

けっこう重要なポイントになってきますd( ̄  ̄)

今の自分の気質や容姿、与えられた環境は、

過去世での行為の結果も加わっており、

また、現世の行為の結果は、

来世以降に持ち越されることもあるので、

その清算をするためにまた生まれ変わらなければならない。

この繰り返しを、輪廻転生というわけなのですが、、、

なので、上記で挙げた例のように、この世に生まれ落ちた理由や、

何で自分がこんな目に合うのさっっ!とか、
理不尽な出来事があったら、

これが関わっている可能性が大だったりします‼︎

物事を、人生一度の問題としてではなく、

前世や来世も含め、とても長いサイクルでとらえ、

必ずしも行為の結果が今世で現れるとは限らないという考えです。
    

あっ!ちなみに、ツケを払いたくない!という感じに、

行いに対する結果を受け取らない!という選択肢は、

存在しません…w

“受け取り拒否”は何があっても不可です…w

必ずカルマを生んだ主の元へ、返ってきます!

(帰省本能抜群のハトのように…←例えわかりにくかったらスルーして下さい(・_・;w)

拒否れば拒否る程、さらに増大しかねないので、

そこは、是非、素直に一度受け取り、、、

………で、、、

どう対処していくかを考えるほうが得策ですっw

そうなると、

「そんなこと言われても、過去生とか知らんしっっ‼︎」とか、

さらには、今度は、

それを受け取るための“心の器”が必要となるわけですが、

それは、話すと大分長くなるので、

また違う機会に書きたいと思います^ – ^(←めんどくさくて逃げた…w)

なので、思い当たる節があったら、

是非、自分の内側を省みてみましょう^ – ^

他人がツケを払ってくれないのと同じく、

カルマも他人によって作られることはないので、

それを作った自分と向き合うのが1番手っ取り早い解決策です。

外の世界に広がる、きらびやかな眩しいもの、

綺麗な宝石、お金、名声、肩書き、ステータスなどの

甘い誘惑たちの存在する物質世界は、

人の欲を魅了する力が絶大ではあるが、

私たちの内側は、それ以上に素晴らしく、

眩しい程に、とても美しいのです。

だからこそ、ヨーガは、それにもう一度気付くために、

内省』・『瞑想』をするのです。

目の前に差し出された事実に無駄な事実など、

一つも存在せず、

(なんせ全知全能の神は、無駄なんて作りません。)

全てに意味を与えられているということは、

=全ての事象に気付けるチャンスを用意してくれている。

ということ。

それを、内省・瞑想により、気付き、

そして、人間にのみ与えられた自由意志によって選択するのです。

良い選択と行いには良い結果がプレゼントされ、

悪い選択と行いには悪い結果がプレゼントされます。

私の好きなスピリチュアル家のお言葉に、

たったひとつの嘘がもたらす破壊的影響。と、

 
たったヒトカケラの優しさがもたらしてくれる美しい影響。

とあります。

この言葉に、その全てが詰まっているのではないか、、、

と思う程に、しみじみ~(´ー`)とくる言葉なのですが、

それは、アーサナや呼吸の中にも等しく存在するということ。

なので、是非、日常の中の選択と行いを、

一度整理整頓してみてあげて下さい^ – ^

という、お話でした。

最後までお付き合い頂きありがとうございました^ – ^

では、また次回更新は、、、

来週か再来週くらいにっっd( ̄  ̄)笑っ

こんにちは^ – ^

夕雨です。

知ってる方も知らない方もいると思いますが

ヨガのインストラクターをさせて頂いております。

自己紹介は、以上…笑っ

(あっ!見開きトップの下界を見下ろしてる猫は、

うちの猫のタマ(長男)です…w)

職業は、インストラクター。

そう!先生してます…笑っ

つまり、伝える側であり、恐れ多いながらも

教える側の立場に立たせて頂いており、

見栄えよく言えば、

導き手(ガイド)であるということ。

この世には、そうゆう立場の仕事に

就いている人達がたくさんいて、皆導き手(ガイド)であり、

単純に、その導くための手段が違うだけ。

私の場合は、

ヨーガがその手段に当たるわけですが、、、

導き手(ガイド)の為すべき役割とは何か?

という問いに、自問自答を繰り返し、

現時点で見つけた一つの“答え”を、

今日は、ブログ第1弾‼︎で、書きたいと思います^ – ^

ここまでが、前置き…

今からが本題っ!…やっと(笑)




さて、世間一般でいう“ヨーガインストラクター”
の仕事のイメージは何か?と聞いたら、

ほとんどの方は、

「ポーズを教える」とか、

「ポーズが与えてくれる心身の効果を教える」とかが1番にくるかと思います。

もちろん、ヨーガは、そこにだけ留まるものではないということは、

言うまでもありませんが、

教える内容が、ポーズをより深めやすくするための筋トレや方法であろうと、

哲学であろうと、解剖学的知識であろうと、

そもそもヨーガって何なのか?であろうと、

“導き手(ガイド)の為すべき役割”

というやつは、その一歩先にあるんだ、

ということ…に、

少しだけ気付けるようになりました。

私個人の考え方ではありますが、

導き手(ガイド)側は、(私の場合は、ヨーガを通して)

それを受け取る側(=お客様や生徒)の

潜在意識の中にある選択肢の幅に、

“気付き”を与えるのが、

役割であると思っています。

どうゆうことか?というと、、、

例えば、ダイエットしたいのに、

駅とかで、限りある時間を割いてでも、

エスカレーターを並んで待つ人。

↑人の多い都会の駅ではよく見かける光景…笑

矛盾してますよね…⁈笑

でも、多分、悪気があってエスカレーターを選択しているわけではなく

(体調不良とかは除く…笑)、、、

ただ無意識の選択。

ただ、いつもエスカレーターを選択しているから。

それが当たり前で。。。

そして、そこに階段を選択するいう思考回路が、まだ通っていないだけ。

……要は、思考の癖。 

そんな方が、もし例えば、何かを変えたくて、

私の所へやってきたとするなら、

私が出来ることは、

その人の身体を変えることではない、

ということ。。。

導き手(ガイド)が変えれるのは、

あくまで“階段を登る”という選択肢があることに“気付き“を与え、

それを自ら選択できるように導くことであるということです。 

階段を1日1回×100日選択した人と、

エスカレーターを100日間、無意識に選択した人では、

100日後、大きな差が出るのは一目瞭然ですよね。

私は、生徒様やお客様の身体を変えれる技術を持っているわけでもないし、

それが自分の役割でもないと思っています。

それは、お医者さんや解剖を1から学んだプロの治療家のお仕事。

生半可な知識では、相手を怪我させるだけ。。

そこに、自分のエゴはあってはならない。

自分の思考や心の欲を、
休むことなく今この瞬間も実現し続けてくれているその身体は、

自分自身でしか変えれないものだと思っています。

導き手(ガイド)は、対象とする相手が、

無意識から意識へ移行できるよう、

より良い選択肢を選べるよう、

その方法の案内役であるからこそ、

“導き手(ガイド)”なんだと思います。 

『無意識下から意識下へ』

↑よく聞くこのフレーズ…笑っ

めっちゃ大雑把な解釈にはなりますが、

ヨーガという道は、そうゆう道でもあると思うのです。 

決してポーズや呼吸法のテクニックのみに

留まるものでもないし、留まれるものでもないはずです。

ヨーガという道を選び、

ヨーガを伝えるインストラクターになる。

ということを選択したのなら、

そのポーズや呼吸、哲学が与えてくれる

“ヨーガの本質”を伝えるのが、常に根源にあってこそ、

ヨーガの導き手であるということ。。。

極端な例えをしましたが、

これが、私の尊敬する先生やトレーナーから

学びとった“導き手(ガイド)”の在り方です^ – ^

偉大な方が与えてくれる気付きと学びは、

いつでも多大な機会を、目の前に

…優しく、

…そして、

…さり気なく、

置いていってくれているものなのです^ – ^

最後までお読み頂いた方、

心よりありがとうございます^o^

こんな感じな、私のただの独り言や、

ヨーガ哲学について(←ただの記録用になるかもですが…笑っ)

書いていきますので、ふとした時に、 覗いてみて下さい^ ^

ブログ開設しました^ – ^

暇つぶしに読んで頂けましたら、光栄です。

書く内容は、、、多分哲学…w

そして、1週間に1回は、更新する予定です…笑っ

宜しくお願い致します^ – ^