皆さま、こんにちは^ – ^

今回のblogは、完全に私の個人的事後報告。。といった感じの内容となっとります(笑)

前回のblogの冒頭で、“一大イベント発生中”って書いたのですが、、、

こないだ、人生における転機が訪れたようで、、、

この度、悟りを求めてヨーガを深めるべく模索しておりましたが、

悟りの向こう側とゆうか、0地点に帰した。。とゆうか、、、そんな出来事がありました^ – ^

今思えば、そうなるべくしてなったのであろうという感じがとてもしておりますが、

私をそこへ導いて下さった方やご縁を繋げて下さった方には感謝しかありません^ – ^

この世で一番神秘的な運命があるとしたら、

それはひょんなことから繋がる“ご縁”なんだろうな。と、この上なく実感させられました。

人間の無意識下で下した選択の連続から導き出される一手は、

全てが完璧で完全で、本当に全知だったんです。

さて、

私達は一体何者なのであろうか?

何処からやってきて、何処へ逝くのか?

気が付けば毎日毎日そんなことが、四六時中頭の中でぐるぐる回って、

答えのない答えを求めて止まない心の欲とは裏腹に、

全く答えに辿り着けなかった日々が続いておりました。

学べば学ぶ程に、さらなる新しい疑問が生まれるばかりで、

出口のない無限ループにどっぷりハマったような感じでもありました。。

今思えば、完全に迷子でしたねwww

(前回のblogで迷子にならない方法提示しておきながら、自分が迷子になっていたようで、本末転倒ものですね(・_・;笑。)

そんな時、物事とは突然に起こるもので、最後の一滴の雫がバケツを満たし、

一気に水が溢れるが如く、その欲が満たされる瞬間がやってきたのです。

ただ、エゴが満たされるとは、奇妙なもので、、、

満足感がこの上なく押し寄せ、感極まるものとばかり思っていましたが、

実際は、それと同じ分だけ真逆の感情にも苛まれ、無気力とゆうか何とゆうか、、、

この世への

───────────────、、、“絶望”

という感情にも全てを支配されました。

そして、それまで“悟り”が全てでしたが、その“悟り”がゴミ以下へと変わった瞬間でもありました。

ヨガの先生がこんなこと言ったらアカンやろ~ヾ( ̄▽ ̄;)ってなるかもしれませんが、

今日はヨガのインストラクターとしてではなく、“白 夕雨”としてblogを書いている。

といった感じに受け止めて頂けるとありがたいです。

さて、もう一度問い直してみたい。。。

私達は一体何者なのであろうか?

そして

何処からやってきて、何処へ逝くのか?

果たしてこの世界の中にその正解はあるのだろうか⁇

、、もし答えを提示するならば、

この三次元の世界に限定して言うならば

そこに正しいものや真理は存在しない。

それが、答えになるでしょう。

まぁ、当たり前と言っちゃぁ~当たり前過ぎる答えかもしれませんが、、、笑(^_^;)

宗教も科学も、もちろんヨーガも天啓と呼ばれるものも、ヴェーダ聖典も、、、

そのどれにも等しく正しいものや真理はない。。。

私達の住むこの三次元の世界は、“”というものによって理解をする概念の世界です。

色や匂い、音、物体、、、全てが“”をもった概念。

だから、形を持たないものは認識も出来なければ理解できるはずもない。

私が求めて止まなかったものとは、そういった類のものでした。

魂とは何なのか?

四次元より上の世界はどんな世界なのか?

前世やカルマは本当に存在するのか?

真の平和とは何なのか⁈

唯一無二の宇宙の真理とは…?

それらは、見ることも手で触れることすらも出来ない、、“”のないものなのに、

そこに“”を求め続け、答えを求め続けていましたね~。。

いやぁ~、エゴ全開ってやつですね~(^◇^;)w

そもそも哲学の本質とは、答えを導き出すものではなく、問うことにある

問うことによって思考力が増し、1を掘り下げていく力を獲得することができる。

そして、そこから自己の気質や人生に深みが与えられてゆく。。。

だからこそ哲学が大好きでしたが、その哲学の本質を少し忘れていたのかもしれません💦

三次元世界に生きる私達がこの世界で肉体を授かり生きていくということは、

聖典でたまに見かける、

“肉体は魂の乗り物であり、乗り物をコントロールすることで、肉体の主人へと帰り咲く。”

とかなんとか、、、(テキトーですみません。。。

今日は、白 夕雨としてなので、、、白 夕雨←はこんなやつですヾ( ̄▽ ̄;)笑笑)

って、書いてあったりしますが、

少なくとも、私個人の結論にはなりますが、実際はその逆でした。

私達は何処までいっても魂の道具であるということ。

そして、道具であり続けなければならない。。

だから、いかに道具に成りきり、演じきるか…⁈

のほうが遥かに重要であろう。

意識化させコントロールすることはそれほど重要ではない。

必要もない。

意識化させるということは、無限に広がる可能性を有限へ変えてしまう、ということ。

人間が、意識下でコントロール出来る範囲なんてたかが知れています。

物事はいつだって無意識下で起きることがもっとも美しく完璧である。

そして、そこに魂の本質がある。。。

それが今回の一大イベントで体現したことのひとつでした^ – ^

全てをここに書き切れるわけではないですが、知ったからには後戻りは出来ない。。。

これからの自身のヨーガとの向き合い方も改めていこうと思いました。

よく聞くこのセリフ…

→“始まりがあるものには終わりがある

5000年続いていると言われているヨーガだって、始まりがあるならば終わりはあるんです。

まぁ、終わりがなければ新しい始まりもないわけなのでね(^◇^;)

そんな感じでヨーガの終焉についても、また掘り下げていけたらなとも思ったりしてます♪

(これはこれでまた無限ループにハマりそうな予感大ですけど、、、ヾ( ̄▽ ̄;)ww)

とゆうことで、以上っ♪私個人の事後報告でした✨

最後まで読んで頂き、ありがとうございました。

では、また次回まで^ – ^

皆まさ、こんにちは^ – ^

久々のblog更新となってしまいましたーー。笑。

いゃぁ、、、私事ですが、人生の一大イベントが、こないだ発生しまして

(今も現在進行形ですが、、、)。笑。

今年本厄なので、去年末あたりから、

何か人生に変化が訪れる予感がしてソワソワしてたら、、、

ここぞとばかりにきたーーーーー!といった感じで、、

そっちに無我夢中になっとりました(・_・;笑。

はいっ、blog更新してなかった言い訳です…笑。

とゆことで、今日は、ヨーガのアーサナの醍醐味とゆうか、

そもそものアーサナを取る意味とゆうか、、、

根本の根本に立ち返ったお話をしようと思います^ – ^

誰もが練習をしていると出会う壁の一つである、

アーサナの練習の方向性について、よくお問い合わせやご相談が多いので、blogにアップすることにしました♪

では、本題へ突入でっす✨

さて、、、ヨーガのアーサナとは、何を引き出すためにあるのか⁇

ダイナミックなポーズをとれるようにするため⁈

もしくは、身体の柔軟力と強さを培うため⁈

運動した時の心地良さを味わうため⁈はたまたシンプルに健康のため…etc.と、

言い出したらキリがないですよね。

そして、どれも間違いじゃない、、、

だって十人十色、人それぞれだから、答えなんてありません(・_・;www

もはや、お仕事で収入を得るための術として。でもいいんですwww

現に、ヨーガインストラクターの資格、大人気らしいですしっ♪笑。

知識を得るためのコースは、年々増えていく一方、、、これはこれでとても喜ばしいことっ♪

ヨーガをする理由は人それぞれです^ – ^、、、

でも、忘れてはいけないことがあります‼️

ヨーガをする個人的な目的や理由が何であろうと、

ヨーガのゴールは、そもそも1つしかありません。。。とゆうことです。

そうなんです^ – ^

1つっ‼️しかないんです。(当たり前ですけどw)

そのゴールに根ざした理由であればいいんですが、

そのゴールから遠ざかっていってしまうような理由だと、いつか壁にブチ当たってしまいます。

「あれっ⁈私、何のためにヨガしてたっけ?」

はたまた、「てゆうか、そもそもヨガって何さっ⁈」

という基本的すぎることすら分からなくなり、、、

結果、迷子←wになる。。。笑。

多分これ、よくあるパターンだと思います。

私もそのうちの1人でしたので^ – ^

では、ゴールは何でしょう?

、、、答えは“悟り”ですね。

そうです。

誰でも知ってる“悟りを開く修行”なんです。

(※特にヨーガを伝える側にある人間としては、インストラクターである限り、そこから外れたら、お客様や生徒様は確実に迷いますw)

でも、問題なのは、ゴールが悟りであることを知っているかどうかではなく、

たとえ知っていても迷子になるwのが問題なんです。

何故なら、そもそも“悟りの境地”が意味不明だからwww

なので、前振り、大分長かったですが、その境地へ向かう感覚を書いていきたいと思います^ – ^

さて、この悟りの境地、ヨーガ八支則をお借りして説明すると、

6番目の“一点集中”、7番目の“瞑想”の先に8番目“悟り”があります。

(八支則の詳細はこちら→瞑想日記~八支則前編)、まずこの6番目の一点集中とは⁇

それは、“ランナーズハイ”とか、“ゾーンに入る”という感覚になります。

この感覚、スポーツが好きな方は、けっこう体験してると思います。

そして、“ゾーンに入る”や、“ハイ”の状態とは、

ある活動に完全に没頭し、ただその活動のためだけにある状態” のことを言います。

野球選手だったら、ボールがスローモーションに見えるとか、

サッカーだったらまるでコートの上から全体を見渡し、どこへ次のパスを出したらいいのか手に取るようにわかる。

とかといった感じです^ – ^

これは、極度に集中力が高まった結果、自我意識は完全に消滅し、

感覚が研ぎ澄まされ、自分の全存在がその活動にのみ入り込んだ状態です。

そして、入り込むと、自分と自分の行なっているその活動との間に、もはや境界線は全く存在しなくなり、

スポーツに例えるなら、選手とゲームが一つになった状態を指します。

今なら何でも出来る。といった一種の無敵感はここで感じられ、

自己の内側に秘められていた無限大の可能性に再び出会うことができる。

これが、八支則の7番目に出てくる瞑想状態です^ – ^

エゴは完全に置き去りにされ、直感と本能だけが全てを支配する。。。

そして、極めて自然な形で、身体は自発的に正しい動きへと導かれていく。。。

その先にあるのが悟りの境地です。

私もその境地まではいっていませんので、予測でしかここからはお伝えできませんが、

きっと、悟りの境地は対象がゲームではなく、

この世の全て”が、対象となった場合の一体化だと認識しています。

自己と、自己以外の全てのものとの境界線がなく一体化した状態のこと。。。

この世との一体化。。。

宇宙の真理を体現する瞬間。。。

想像するだけで、ワクワクが止まりませんね( /▽≦=)笑。

“自分は一体何者なのであろうか?”

“我々は何処からやってきて、そして何処へ逝くのか?”

“人間とは何なのか?”

その全ての真理を知る瞬間=“悟り”なんです。

それは、きらびやかな宝石よりも、富よりも名声よりも、

はまたまアーサナの完成形よりも、私達をはるかに魅了する形なきもの。。。

小我は大我にて満たして消す” 、、低次な欲はより高次な欲で満たされて、消滅していくのです^ – ^

そして、ここで押さえておくポイントが2つ💡

1つ目は、一点集中できるもの、つまり没頭できるものなら、何でもいいということっ💡

スポーツでも読書でも、手芸でも音楽でも絵を描くことでも

無我夢中にできるものならなんでもっ♪

この世にある全てのものが悟りへ連れていってくれるツールに成り得るとゆうことです^ – ^

そして、2つ目は、直感と本能だけが全てを支配すると、正しい動きは自然に発生するということ💡

↑これ、めっちゃ重要です!

そう!正しい動きは自発的に発生するんです‼️

いくら知識をかき集め、知恵を蓄えようが、正しい動きには辿りつけません。

それは向こうからやってくるもの。

自分から求めたってやってきませんのでご注意をっ👍笑。

学んだ知恵は、直感と本能の前では、これっぽっちも役に立ちません。

じゃぁ、私達は一体何のために学ぶのか?

それは、何でこうなるの?とか、なんで私はこれ出来ないの?といった、

いわゆる雑念ですねw

その頭の中の鳴り止まない自我の声を黙らせるために学ぶのです。

その雑念が一点集中に入れない原因となっていますので(・_・;笑。

その声さえ止めば、誰でもゾーンへ入れるのです♪

なので知識を得るためのお勉強の時間と、ヨーガの訓練をする時間を混同してはいけません。

ヨーガの訓練は、あなたの心をマットの上に留めおき、今この瞬間と一体化することです。

私達は、過去をもう一度生きることも、予め未来を生きておくこともできません。

実際に生きることのできる瞬間は『今』だけです。

なので、もし、練習に行き詰まったら、

是非一度このヨーガの根本に立ち返ってみて下さい^ – ^

今日は、そんなお話でした♪

こんな感じの哲学のお話~実践までを、2月18日(日)15:30~2時間ほど、個人セミナーでも致します♪

ご興味ございましたら、お問い合わせ下さいませ♪

ではまた次回までっ^- ^

皆さま、こんにちは^ – ^

今回は八支則で、まだUPしていなかった1.Yama(ヤマ)について書きたいと思います。

これで、やっと八支則編、完結ですね(・_・;笑。

ヤマは、5つの禁戒を指し、日常において行ってはいけない心得のことを言います。

では、早速掘り下げていきたいと思います^ – ^

1.Yama(ヤマ):禁戒~

人間は、自分の存在を定義する概念を常に必要としている生命体です。禁戒は、私達が、人間の根本であるその概念に、再びどう立ち返るか?を提示してくれている。

■Ahimsa(アヒムサー)=非暴力。行動、言葉、思考により自他ともに傷付けない。

➡︎自分を大切にしましょう。私達は、皆心を傷める経験をするようになっています。でも、心を傷める経験は、私達を人生の次のステップへ押し上げるためのものであって、その経験の中に生きることではない。傷を抱えるとは、刃を握り締めることと同じで、強く握った分だけ、あなたに刃は深くめり込んでいくが、その傷をもたらした人々を傷付けはしない。大事なのは、その傷をもたらした人々を許せるほどに、自分を大切にすることです。

Satya(サティヤ)=誠実であること。嘘をつかない、言動の一致。

➡︎自分に素直でありましょう。他人に正直にあってはいけません。それは、外側からどう思われているか?の自分ばかりを取り繕うことと同じです。でも外から自分を取り繕うには限界がある。それは、等身大の自分を見失わさせる。等身大の自分とは“ありのままの素直な状態のあなた”だ。その素直さこそが純粋無垢な心そのものであり、“何の取り繕いも必要としない状態”それを、『無』の境地と言うのです。

Asteya(アスティーヤ)=不窃盗。物、時間、考えを盗まない。

➡︎自分の能力を信じましょう。誰かを羨ましがる必要はない。欲しがる必要もない。どんなに羨ましがっても、欲しがっても、あなたはそれには決してなれない。それでも欲しがるなら、その人の影の努力も闇も全てを欲しがることです。自分に足りないものばかりを外の世界に探すのではなく、今自分に何があるのかを数えましょう。

Brahmacharya(ブラーフマチャリヤ)=節制。精神的、肉体的な快楽を求めない。

➡︎自分を愛しましょう。自分を愛するとは、自己の内側に幸福を見つけることです。人間の快楽を欲望する心は、この永遠の幸福を見つけるために与えられたシステムです。大切なのは、快楽に溺れ、欲望の奴隷へと成り下がらないよう、自分が快楽を制御し、欲望の主人で在り続けることです。私達が欲望の主人へと昇格した時、快楽は幸福へと姿を変える。

Aparigraha(アパリグラハ)=貪欲でないこと。執着しない。手放すことを恐れない。

➡︎自分に自由を与えましょう。執着は私達の心が自由になることから遠ざける役割がある。そして、執着を手放す最も簡単な方法は、今この瞬間に心を留めおくことです。今この瞬間だけは、期待と不安の広がる未来もなければ、囚われた過去も存在はしない。それが自由であることの象徴です。執着から自分を解き放て。とは、『今・ここに』生きることを指すのです。

出来る出来ないよりも今この瞬間の自身の努力を愛ましょう。結果よりも今ここに在れることに感謝を抱きましょう。 それは確実に、私達を執着から遠ざけ、無限に広がる可能性(歓喜鞘)の中へと導いてくれる。

以上が禁戒です^ – ^

5つの禁戒は、決して欲することを禁止するためのものではありません。

その欲望する心とどう向き合い、制御するのか?の方法論を説いてくれています。

私達の自我は、生涯をかけてひとつの問題を解き続けている。

自分は一体何者なのであろうか?” この答えを知るために、用意されたのがこの物質界です。

そして、この物質界にはひとつの法則があります。

“意識が実体(物質)を作る。”

思考が現実化するとはまさにこれのことで、宇宙の創造法則に当たります。

そして、私達は、この世界における自分の概念を打ち建てるべく、

肉体を授かり、自己の思考を現実化していくわけですが、これをもっと簡単に言い換えると、

要は、これが自分だ!と思うものを引き寄せ集めてるんですね。

だから、目の前に広がる世界は自分の映し鏡っていうことになるのです。

人間関係も、物も、出来事も、、、みーーーんな全てが自分の現れなんですね。

なので、“自分は一体何者なのであろうか?”の答えは、確かに私達の中にありますが、

私達の中とは、この外に広がる世界そのものであり、宇宙そのものであるのです。

人間が、小宇宙と呼ばれる理由はここにあったりします♪

でも、もし目の前の自分が創造した現実に、「ここは、私が求めた世界ではない。」と

少しでも違和感を感じるのであれば、とことんその違和感と向き合ってみてあげて下さい^ – ^

自分と向き合うとは、この世界とどう向き合うか?です。 そして、行き詰まった時、この八支則の禁戒と歓戒

(歓戒の内容はこちら→瞑想日記④~八支則後編vol.1)を見返してみてください✨

必ず問題解決へと導いてくれますから^ – ^

今日はそんなお話でした♪

次回は来年になりそうですね🎍

皆様、メリークリスマス&良いお年をお迎えくださいませ^ – ^

では、また2018年にっ♪

皆さま、こんにちは^ – ^

今回のblogは、前回の八支則で挙げていなかった

1.Yama(ヤマ):禁戒と、2.Niyama(ニヤマ):歓戒を書いていきたいなぁ~

と思うのですが、、、これも全部書くとまた長くなりそうなので、、、(笑)

今日は、瞑想体験と含め、

2.Niyama(ニヤマ)だけを先にピックアップしたいと思います♪

では、早速、前回の八支則前編に引き続き、

箇条書きで今回も、紐解いていきたいと思います^ – ^

2.Niyama(ニヤマ):歓戒。=日々推奨される5つの行いのこと。

■Saucha (シャウチャ)=清浄。心身ともに常に清らかに保つ。

➡︎身体を清めることばかりに意識を向けてはいけない。心を最後に洗ったのはいつですか?大切なのは、毎日お風呂で身体を綺麗にすることと等しく、心も、日々の終わりにどれだけ洗えたか?が重要です。

そして、心の垢を洗い落とせる石鹸があるとしたら、それは“感謝”をすることです。

■Santosha(サントーシャ)=知足。与えられた環境を受け入れ満足する。

➡︎目の前の世界を否定してはいけない。それはあなたが創った世界だから。たとえどんなに理不尽なことがあっても、まずは 全てを受け入れることから始めよう。 目の前の現実が誰かが創ったものだと思う心がある限り、それは自分の人生を生きる権限を他人に明け渡していることと同じことになる。そこがどんな世界であろうとも、一度受け入れ満足した時点で、人は初めて自分の人生を歩める権利を手にできるのです。

■Tapas(タパス)=苦行。自己鍛錬。向上心を持つ。

➡︎自分の価値を低く判断してはいけない。目標は常に高く持ちましょう。

私達人間の中に眠る潜在能力は、無限大の可能性があります。“潜在意識へ落ちた思考は必ず現実化される。”それがこの宇宙のルールです。そして潜在意識へ思考を落とす方法は、“毎日コツコツ”です。塵も積もれば見上げる山となる。それが最小の努力で最大を得る宇宙の法則であり、秘めた能力を開花する鍵となるのです。

■Svadhyaya(スヴァディヤーヤ)=経典読誦、学習。

➡︎学びを止めてはいけない。それはあなたの心を腐敗させていく。でも、知識をかき集めることだけに満足してもいけない。学ぶとは、頭の中に詰め込んだその知恵を、体験の中に見い出すことです。

そして、理解出来るまでとことん考え抜きましょう。考え抜いたその先に、真実の扉がありますから。それこそが、第三の目であり、第三の目は“知識の目”です。それは真実を見る力を私達に与えてくれる。

■Isvarapranidhana(イシュワラプラニダーナ)=自在神記念。神への祈念。

➡︎妄信してはいけない。まずは自分を信じることです。自分への信心なしに他を信じることは依存です。神は外の世界にはいない。神の住処は私達の中だ。

人はいつか自分の無力さに気付く時が来ます。そして、自分の運命を神の采配に委ねざるおえない時が必ずやってくる。その時導いてくれるのは、隣人の言葉ではなく、あなたの頭の中にいるもう1人の自分=神です。そのささやきを聴き逃さないためにも、まずは自己の内側に軸となる拠り所を創ることです。

“神は自己を省みる者に報いる”

以上がニヤマです。

もちろん、この解釈は前回に引き続き、私の主観全開になっとりますので、

1つの解釈として捉えて下さいませ^ – ^笑。

ニヤマは、外の世界からどうやって自己の内側にある世界へ移行するのかを説いてくる。

それは、高次の自己と今の自分の差を劇的に縮めてくれる導きでもあり、

“魂への道導べ”となります。

私達は、みな、自己の魂との差を埋めるために、

肉体を授かり、この世界で生を体験しているわけですが、

先日、魂にまつわる不思議体験?みたいなのをしたので、

ここからは、その体験をちょっと書いていきたいと思います^ – ^

先日、お風呂上がり、洗面台の鏡越しに映る自分の顔色が、いつもより明るく感じたことがあって、、、。

何でやろ~?って考えながら、リビングのほうへと歩いてたら、

突然、身体の内側から喜びのような、嬉しさのような、

喜楽に満ちた感情が一気に湧き出てきて、びっくりしたことがありました。

その感覚は5分程して落ち着いていったのですが、

その間の私の頭の中は、もう大パニック状態でした(笑)。

時間が経つにつれて、

その感覚は理性では抑えられないほどにどんどん膨らんでいったのですが、

だからといって、その感覚に身体を委ねてみようかと、

力を抜いたら身体が振動しはじめる(・・;)

「あっ、こいつ(身体)私の言うこと聞かない。。。」って思いました(笑)

必死に落ち着こうとしましたが、それでも意識だけがどんどん膨張していって、

もはやこの身体には収まりきれないのを感じました。

その時、ようやく自分の肉体から意識が出ていこうとしているんだということに、気付いたのです。

意識だけがクジラのように大きく広がっていくのを感じました。

それと同時に、その意識をこの小さな肉体に閉じ込めるのは、

いつか限界がくるということも頭をよぎりました。

(なんせ、身体の振動を抑えるのに、全身の筋肉を岩のように固めてたので、、、💦)

その時、肉体というものは、魂にとってなんて窮屈なんだろうか、、、

という思いが込み上げてきて、自然と泣いとりました。

(もはや情緒不安定ってやつですね。。笑)

魂はきっと、本当はクジラのように何倍も大きな身体を、

最大限に縮こまらせて、こんな窮屈で小さな私達の肉体の中にいてくれているんだということを感じ、

畏怖の念と感謝でいっぱいになったのを覚えています。

そして、それと同時に、「じゃぁ、いっそのこと、身体から出してみよ!」って思った瞬間、

頭の中で「あっ、出し方とか知らね~(・_・;」っていう声も聞こえ(笑)、

その後ようやく「あっ!深呼吸したらいいんやっ💡」っていうことに気づきました(笑)。

そこからはただひたすら深呼吸を繰り返し、

吐く息の度に少しずつ落ち着いていくのを感じたところで、

吸った後のクンバカ(止息)で、思考と思考の狭間にいけたのを覚えています。

時間にしたら2秒程度ではあったと思いますが、

帰ってきた時には、とても脳の安らぎを感じていました。

結局、身体から意識は出ていくことはなかったでしたが、

その体験中、有り余るほどの力を感じ、今なら何でも出来るような、

一種の無敵感をとても強く感じたのも事実です。

人間の可能性はまさに無限大です。

しかし、その無限の可能性に蓋をしているのも、また自分自身であるということを、

言葉の理解ではなく、体験を持って痛感させられました。

そして、その蓋の正体はやはり私達のエゴでした。

ニヤマの持つ主な役割は、まさに、人間をエゴから解放することです。

人生を歩む過程で、純粋無垢な心に、私達はエゴの鎧を足していく。

でも、その鎧が守っているのは、私達の本質ではなく、

あくまでもエゴイスティックな自己であるということ。

自分のエゴに振り回されるほど疲れることはない。

ニヤマは、明確に、エゴから自己を開放する術を私達に説いてくれています。

少し話が飛びますが、もうすぐお正月ですね🎍

お正月と言えば、大掃除💡

所有物の数だけエゴは増しますから、

これを機会に、是非、不必要なものを掃除してみてください( /▽≦=)

自分のエゴに振り回されて疲れてしまわないうちに、

感謝の気持ちを込めて断捨離しましょう♪

今日はそんなお話でしたっ♪

次回は、『Yama(ヤマ):禁戒』について、また書きたいと思います^ – ^

では、また、次回までっ♪

皆さま、こんにちは^ – ^

瞑想日記③、更新できております‼︎笑。

今日は少しだけ八支則の3 番~8番に触れてみようと思います♪

1.Yama(ヤマ)と2.Niyama(二ヤマ)は、

一緒に書くとまたえげつなく長文になることが予想されますので、

次回以降に繰り越したいと思います^ – ^笑。

では、本題に入りたいと思います。

さて、ヨーガを学ぶにあたり、ガイド役となってくれているのが、この八支則っ‼︎‼︎

人生における様々な体験の中で、

味わった感情の分だけ八支則への理解度が深みを増していくわけですが、

悟りとは、その真逆の性質を持っていたりもします。

そんなわけで、八支則を箇条書き形式で紐解いていきたいと思います^ – ^

✳︎八支則✳︎

8.Samadhi(サマーディ)=悟り。

■悟りとは、深めたその学びを、全て忘却することにある。

➡︎人は、学ぶ程にどれだけ自分が無知であるのかを思い知らされます。

たった一つの体験の前において、知恵や理性というものは、実に何の役にも立たないのです。

7.Dhyana(ディヤーナ)=瞑想。

■瞑想とは、目には見えない世界(右脳)を拠り所とすることである。

➡︎私達の住むこの世界には、目に見えないものが確実に存在しています。そして、目に見えないものの価値は、目に見える日常的なものと同等か、それ以上に重要な意味を持つ。

人間は、目に見える世界が全てだと思ったその瞬間から、実に表面的なものしか理解できない生き物に成り下がる。

6.Dharana(ダーラナ)=集中・精神統一。

■集中とは、もはや自我の届かないところで為されなければならない。

➡︎私達の自我(=左脳)は、わからないことに説明をつけたがる。それが言い訳であり、雑念と呼ばれるものの正体です。

本当は、何も理解しなくてもいい。その何も理解できない自分を許し、委ねることで初めて深いリラックス=一点集中が齎されるのです。

5.Pratyahara(プラティヤーハラ)=感情の制御。

■感情の制御とは、自分の人生を生きることである。

➡︎あなたが感じたように、この世界はなる。

高次のあなた(=自己の本質、魂)は、今のあなたがどれだけ成長したかを、結果ではなく、体験の中で、その瞬間瞬間に抱いた感情で評価を下すのです。

4.Pranayama(プラーナヤーマ)=呼吸の制御。

■呼吸の制御とは、”今”という瞬間に心を留めおくことである。

➡︎”今”という永遠の時間を体感するのにこれほど最強で便利なツールはない。

そして、目に見えないもう一つの世界を開く扉が、呼吸なのです。

3.Asana(アーサナ)=坐法の確立。

■坐法の確立とは、自己の身体と心のバランス(=ニュートラル)を知ることにある。

➡︎ポーズをとっている時の心身のバランスは、身体は”動”であり、心は”静”です。しかし、坐法(座禅)をとっている時の心身のバランスは、身体が”静”で、心は”動”でなければならない。

以上です^ – ^

ざっと簡単にまとめるとこんな感じに捉えることができたりします。

が、これはあくまで私個人の感覚によるので、

八支則を、今日ここで初めて触れられる方は、

これが全てではないことだけ、ご了承下さいませっ‼︎‼︎

(なんせ、私の主観が全開入っておりますので、ご注意をっっ‼︎笑。)

悟りの境地というものは、学ぶものではない。

学んだその知恵は、いつか必ず役に立たない時がやってきます。

しかし、その”気付き”の連続こそが”悟り”へと導いてくれると確信しています。

私達の住むこの『有』の世界では、

『無』の世界を引き出すことが不可能だと思うくらいに想像もつかないものですが、

それは、逆も然りでした。

『無』の世界の入り口は、

逆にこちら側の『有』の世界の情報を引き出せないのです。

何かを思いたいのに何も思えない。

数字の数え方もわからない。1の次が2ということすらも忘れる世界なのです。

それが、私の触れた思考と思考の狭間にある

『無』の世界への入り口に立った時の感覚でした。

まさに、”忘却”という言葉が相応しく思いました。

今まで『有』という世界で、

自分の立ち位置を確保するために必死にかき集めた知恵は、

微塵も役立たなかったのです。。。

もはや役立たなさすぎて気持ちいいくらいに(笑)。

では、私達は一体何のために学ぶのであろうか?

その問いに対する答えがあるとしたら、

それは、わからないことに説明をつけたがる自我(=左脳)を、

ちょっとの間だけ黙ってもらうために、

瞑想の間だけ、出しゃばらせないようにするために、学び続けるのだと思います。

わからないことに答えを与えてやることで、

必ず自我(=左脳)は大人しくなってくれますから。笑。

つまり、私達が瞑想中に抱く様々な想念を消す手段として、“学び続ける”のです。

自我の抱くエゴは、学びを与え満たすことで手放すことができる。

そのためにこの世界が在る。

そして、学びとは、自ら変化を求め、体験を通して成長すること。

魂は変化が大好物ですから^ – ^笑。

なので、変化を恐れず、是非、人生に変化を迎え入れてみて下さい^ – ^

それが、自分の人生を生きる大きな一歩になりますから✨✨✨

というお話でしたっ

では、また次回までっ♪

皆様、こんにちは^ – ^

瞑想日記②、更新出来ました‼︎更新出来た自分に一安心です。笑。

今日は悟りの境地について、もう少し掘り下げてお話ししていきたいと思います^ – ^

悟りの境地は、ごく一部の修行者のみが到達出来る、

苦行の先にあるのかないのかわからない(笑)境地などではない。

ということと、物質主義の時代が終わろうとしているこの変換期において、

今何が起こっているのか?も繋げてお話していきたいと思います^ – ^

さて、私たちは一体何者なのであろうか?

この3次元(+時間)宇宙において、人間の果たす役割とは?

あるいは、この世界の中で、どのように在りたいか?

その答えは悟ることで全て知ることができるとされております。

そして、『悟る』とは、現代的に言うと、“右脳の覚醒”を意味します。

つまり、悟りのシステムは、実は、全てはじめから、

私たちの中に用意されているということです^ – ^

脳科学者や禅宗に詳しい方など知ってらっしゃる方も世界中には大勢いるであろうが、

私たち一般人には、ちょっと馴染みがない世界だったりもします。

でも、私たちの生きるこの時代は、

物質主義から心の時代へ移り変わりゆく変換期であり、

いずれ、全ての人々がこの悟りの境地を体現する日もそう遠くない所まで来ているので、

この期に是非、頭の片隅に留めて頂けると、どっかで役に立つかもしれません、、(笑)。

では、具体的に変換期では何が起こるのでしょうか?

それは、私たちの住むこの宇宙と深い関係があります。

この宇宙は、3次元でありますが、次元は26次元あると言われていたりもします。

そう、まだまだずーーーーっと先に高次な次元が果てしなくあるわけなんですね。

そして、各次元には課題が与えられており、

私達のいるこの3次元の世界に与えられた課題とは、

本当の自己に至り、調和すること』です。

調和とはバランスをとることであり、

だからそのバランスを学ぶためのレッスンの場として、

全てが二極化された世界を与えられているわけなんですね^ – ^

(二極化が分からない場合はこちらの記事を参照。→二元論~思考と思考の狭間へ~

そして、与えられた課題がクリアできたら、

次の4次元に上がれますよー!ってことですね。

ちなみに4次元の課題は、『愛と調和』で、

21次元より上の生命体を私たちは“神”と呼んでいるそうなので、

“神“とは人間が高次に進化した生命体ということになります。

そして、今現在、世界中のありとあらゆる所では、

精神性が非常に高い、すでに霊的に覚醒をしている

愛と調和(4次元の感覚)をもった、次元上昇(アセンション)を担う子供たちが、

地上に多く生まれてきているのが、その変換期である良い証拠でもあります。

つまり、変換期とは、

「3次元から4次元にそろそろ上がりますよーー!

地球の皆様、置いていかれないように、

流れに乗ってちゃんと着いてきてくださいねー‼︎」

という地球のアップグレードのことを指します。

そして、このアップグレード後の4次元を理解し、

生きていくには必ず必要になってくるのが、“右脳の覚醒”なのです。

3次元に生きる私達が、4次元を理解するとゆうのは、

今2次元の世界の住人である動物や植物が、

この3次元の世界を理解するということと同じです。

言い換えると、この複雑な人間社会を家族であるペットのワンちゃんとかが、

理解しちゃうといった感じです(笑)。

それくらいに他次元を理解するとゆうのは、

想像もつかないほどの創造力を要しますが、それを可能にするのが右脳であり、

右脳の覚醒こそが悟りを開くということになるのです^ – ^

では、右脳と左脳では何が違うのでしょうか?

私が説明するよりもジル・ボルト・テイラーさんという

脳科学者の動画をYouTubeとかで調べて見て頂いた方がわかりやすいのですが

(なんせ、脳科学者でも何でもないので、、、笑。)

一応、簡単に説明すると、右脳は、命そのものの働きを司り、

映像や五感の感覚システムで学び、言葉を持ちません

(ちなみに言葉でのコミュニケーションは3次元に限ります。

3次元より高次元は、言葉を持たず思考すれば伝達します。

テレパシーのようなものですね)。

情報処理スピードは左脳とは比べ物にならない程に超光速で、

だから、潜在意識へのアクセス中、

莫大な情報が私の頭の中へ超高速スピードで流れ込んできたのも納得がいきます(・_・;笑。

そして、右脳にとっては、『』この瞬間が全てです。

私達の身体を作る37兆個もの細胞の全てから情報を取り入れ、

この世界を、細かい粒子のようにエネルギー体という形をとって見せてくれます。

そこには、自分と他人・物質との境界線は、もはやなく、

お互いに繋がりあった、いわば一つの兄弟家族のように、

この瞬間、この世界をありのままに認識する。

悟りの世界とはまさにこのことを指します。

それに対して、左脳は、『過去』と『未来』が全てです。

言葉と文字でこの世界を学び、

右脳が映し出した『今』という、この瞬間の完璧な世界から、

断片的にディティールを拾い出し、

エネルギーを物質という形に変換して私達に映像として見せてくれます。

そして、その断片的な情報を、過去に学習した記憶と照合し、

そこから導き出した選択を未来へと投影する役割を果たす。

普段、私達が認識しているのは、言うまでもなくこの左脳が見せてくれている世界になります。

左脳の人格は有限的でそこには『』という自我意識が存在する。

それに対して右脳は無限であり、永遠の人格を持つ。

つまり悟るとは、有限である肉体が朽ち果てようとも、

もともと自己は永遠の存在であるということを知識ではなく

身を持って体験することであり、

そして、左脳のエゴ的な人格が、右脳の永遠の人格の前において、

二度と出しゃばらなくなる。ということを指すのです。

その右脳を活性化させる簡単な方法が瞑想であり、

前回の記事でも書きました深呼吸なのです。

普段、無意識にしている浅い呼吸は左脳を活性化させます。

逆に深呼吸は右脳を活性化させます。

深く呼吸をすることで、脳に呼吸が染み込んでいき、

中から目覚めさせていくというようなイメージですね^ – ^

なのでホンマに暇さえあれば、深呼吸することを心の奥底からオススメ致しますっ♪笑。

全人類がリラックスし深い深呼吸をするだけで、

この世界は愛に満ち溢れた世界へと生まれ変われる

と思うと、しない理由がそもそも見つからんっ‼︎笑。

そして、その右脳の覚醒にもっとも重要な条件として、

松果体の活性化は必須になります。

松果体と言えば、、、第3の目であり、6番目のチャクラですよね✨

6番目のチャクラが開くと自動的に7番目が開き、

悟りの境地に達するということは、ヨギなら誰でも知っていることですが、

ヨーガのポーズでの身体調整も、

アーユルヴェーダにおける様々な身体浄化法の存在理由も、

つまるところ全ては、

最終的にこの松果体を調整することを指し、

浄化するのみ。のための手段に他ならないのです^ – ^

なので、次回はそこんところを、

もう少し掘り下げてアップしていきたいと思いますので、

今日はこの辺で終わりしたいと思います(じゃないと、えげつない長文になりますんで(・_・;💦笑)。

では、また次回までっ^ – ^♪

皆さま、こんにちは^ – ^✨

瞑想日記なるものをblog公開で付けることにしました。

ヨーガをしていても、瞑想ってまだ馴染みが少なかったりするのが現状。。。

でも、ヨーガは瞑想‼︎って言われるにはちゃんと理由があります‼︎

それを私の瞑想体験を通してお話していく予定

(予定ですので、、、続くかどうかは気分になります。はい。すみません。笑)

ですので、皆さま今後とも宜しくお願い致します🙏

あっ!でも、内容はかなり現実離れしておりますので、

そこんとこ、先にお伝えしておきますね‼︎笑。

今から書くことで、刺激がちょっと強いわ~って思ったら、

全然フェードアウトokです👍笑。

では、瞑想日記第1弾に入りたいと思います。

皆さん、瞑想しはじめの頃って、頭の中は雑念だらけ(笑)だったりしますよね⁈

これが慣れてくると、自然に消えていくものなのですが、

現代人は中々消えない人多いんじゃないかなと思います。

これ、何でだと思いますか?

昔の人って、すぅーと簡単に瞑想できてたんですよ。

でも現代人はそうではない。

一つの理由としてあげられるのは、

都会とかだったら、生きてるだけで五感を通して入ってくる情報量があり過ぎて、

もう脳が、「そっちを処理するのに必死過ぎて、瞑想なんか出来るかーーー!」

と叫んどるんですよね。(笑)

そして、もう一つ‼︎それは、身体の柔軟性なんです‼︎

その中でも、特に脊柱や肩回り、胸の開きと首の筋肉の柔軟力は、

脳に直結です‼︎

だから、アシュタンガヨーガのフィニッシング(瞑想に入る前)って、

首の柔軟力を出すポーズとか胸を開く後屈が組み込まれいるんやと勝手に思ったりします。

肩回りが凝ってる人、瞑想は絶対入れませんので、

ヨーガのポーズでもいいですし、

もう凝り過ぎてる人は、鍼灸とかプロのマッサージ屋さんにほぐしてもらうのも

現代人はアリやと思います(笑)ので、とりあえずほぐしてあげてください^ – ^

そうして、はじめて深い瞑想に入れるようになるんです。

そう考えると、ヨーガはやっぱりめっちゃ理にかなってる✨

ということが、身に染みて分かってきます。

瞑想のためのポーズであって、ポーズのためのポーズなんて存在しませんので(笑)。

そして、瞑想に慣れてくると、丹光(=瞑想中に見える光)や音が聞こえたり、

耳鳴りがしたり、耳に膜が張って、脳が篭るような感覚

(トンネル潜った時のような感覚と似てます。)になったりします。

それは脳の周波数が変わりはじめてますよ~っていうサインなので

(瞑想状態の脳は、普段の周波数と違います。)、

もしそうなることがあっても心配せずに、そのまま続けて下さいね^ – ^

この時の意識を変性意識と言います。

変性意識になると、はじめて自分の潜在意識へのアクセスが可能となります。

私達は、顕在意識と潜在意識があり、

割合は顕在意識が10%程度で、潜在意識が90%を占めると言われています。

※顕在意識=表層意識。自覚している意識のこと。こちら側の世界のこと。

※潜在意識=無意識。自覚していない意識。あちら側の世界のこと。

顕在意識+潜在意識=自己。

ですが、私達はたった10%の顕在意識のみを自己と認識してしまっています(・_・;

なので、ヨーガ=本当の自己に至る道であり、その本当の自分を知るために、

この自己の大半を占めている潜在意識にアクセスしましょー‼︎

そのための瞑想なんですよーー!って教えてくれているのです。

ちなみに自分が何のためにこの世に生まれ落ちてきたのか?

という人生の設計図はこの潜在意識の中に全てあります。

では、瞑想の解説はこれくらいにして、

ここからは瞑想中の体験談を書いていきたいと思います^ – ^

潜在意識ってめーーーーっちゃ深いんですが、、、、

奥深くまで行きすぎると、中々戻ってこれない程に深いです。

そして、潜在意識真っ只中にいる時、

今の私がまだまだ未熟ということもあると思うのですが、

こちら側の世界の記憶を全て失くしてしまいます(・_・;笑。

要はあちら側(潜在意識)が全てになります。

でも、こちら側の世界(表層意識)に戻ってきた時には、

あちら側でみた映像や情報は全て失われる。。。

あちら側にいる時に見るものは様々ですが例えるなら、

まさに死ぬ間際に見る走馬灯のように、心の中の莫大な情報が、ものすごいスピード

(光より早いんじゃないかと思うくらい)で頭の中に止めどなく流れ込んでくる。

一体こんな膨大な情報は、私の中のどこにあったんだろうかと思うほどにです。

見たことのない景色や人々や映像は、もはや今世のものとは到底思えません。

何時間も時間が経ったように思うのに、こちら側の世界に戻ってきた時、

それは時間にしたら2秒も経っていないことに気付く。

これはまさに、前回のblogで挙げた宇宙の時間の法則に当てはまります。

つまり、あちら側の世界は、時間などという概念はない。

まさに全てが今この瞬間にしか存在しない。

そして、記憶とは、なんと脆いものなのだろうかと思い知らされる。

あちら側にいったら、こちら側で過ごした思い出など、

取るに足らないほどに霞んでゆく。。。

そして、こちら側に戻ってくる時、

莫大な情報の一つでも何とか覚えて帰ろうとするのに、

夢を忘れてしまう感覚と同じように、戻ってきた時には綺麗サッパリ忘れている💦

私の記憶力が悪過ぎるだけなんかな(・_・;って思うくらいにです(笑)。

これは、きっと私がまだまだ未熟過ぎるからだと思うので、

熟達してくると、得たい情報にアクセスし、

そして記憶を失わずに表層意識に持ち帰ってくることが可能になると思います^ – ^

そして、あちら側に連れていってくれる一つの手段はやはり深い呼吸です。

なので、暇さえあれば、深呼吸をすることをオススメ致します^ – ^笑。

呼吸こそが、潜在意識と顕在意識の架け橋となってくれるのでっっ♪

こんな感じで体験談や瞑想の楽しさとかも

またblogにアップしていきたいと思いますので、宜しくお願いします^ – ^

では、また次回までっ♪

皆さま、こんにちは^ – ^

はたまた久々のblog投稿となりました(・_・;

もはや、blogやる気あるんけ(+`・д・)?

ってゆうくらいのペースでいつもすみません。。。

一応、やる気はあります‼︎笑っ

ただ、気まぐれなだけで、すみませぬm(._.)m

今日は、“宇宙の時間”のお話です^ – ^

宇宙の話になると、若干、ぶっ飛んだ内容のところもありますが(笑)、

へぇ~そんな概念もあるのね~ってゆう感じで

受け止めて頂けるとありがたいです(笑)。

さて、この時間という概念は、

そもそも私達の住むこの宇宙にのみ、存在します。

あっ、、宇宙は1個ではありません。(10の49乗個あるそうな、、、笑。)

なので、今日まで1個しかないと思ってた方は、

是非、今日から宇宙は無限にあるーーー!と、

思考チェンジしてみることをオススメ致します✨笑。

では、本題に入りたいと思います^ – ^

私達のいる宇宙には、時間軸が存在します。

何世紀にも渡って私達人間は、

時間に対する概念を『過去』→『今』→『未来』へ経過していくと定義し、

そして、時間の経過は変えようのない絶対の尺度である。 

としてきたが、宇宙時間の概念はそうではない。 

人間の時間は、あくまで人間が発明したものに過ぎない。 

では、宇宙の時間の概念とは⁇

それは、『今』→『今』→『今』なんです。

そう、もう、『今』しかないんです。

宇宙の彼方まで行っても、あるのは『今』だけなんです‼︎笑。

何故『今』だけなのかというと、それは宇宙の創造の法則と深く関わりがあります。

簡単に説明すると、宇宙の創造システムは、

私達のいるこの物質界を創造した時を『今①』とすると、

その次の瞬間には、物質を全て1番細かい粒子(=宇宙を創造する材料の状態)

までバラバラにします。

そして、さっき物質化した世界『今①』での情報を元に、

それよりもっといい次の『今②』を創造するため、

バラバラにした粒子で、もう一度創造します。

そして、次の瞬間にはまた材料だけの状態に戻し、

さっきの『今②』での経験を生かし、もっと成長した『今③』を創造する。

これを無限に繰り返しているのが、私達のいる宇宙の創造のシステムです。

ちなみに、悟り=無の世界とされていますが、

その無の世界とは、この『今①』と『今②』の間に存在する狭間のことを指し、

宇宙が材料の時だけに戻った時のことを言います。

なので、向こう側の世界(=悟りの境地)とは、

何処か全く別の次元にあるものではなく、

私達のいるこの世界とと共に今この瞬間に存在しているということなのです。

私達がその材料だけに戻った時の世界を認識できないのは、

人間の脳の仕組みにあります。

どうゆうことかというと、

『今』と次の『今』を創造するのに要する時間の速さは、光の速度を超えます。

要は速すぎて人間の脳では認識出来るスピードを超えているので、

脳が良い感じに処理をしてくれて(笑)

目の前に広がる画像と画像を動画のように繋げて見せてくれとるって感じです。

あっ、ちょうど映画のフィルムのような感じですね^ – ^

悟りを開いた仏陀が

“此の世の何処にも真理はなかった”という名言が残されているように、

きっと、目の前に広がるこの世界は確かに実体として存在はしているが、

それが真実とは限らないということなのかなと思ったりもします。

だから、私達のいる宇宙は『今』という時間しか存在しないのです。

過去も未来も存在しない。

過去と未来があるという定義は、私達人間が創造した産物ではあるが、

私達を生かしているのはこの宇宙です。

だから私達人間は、人間が人間のために作った宗教的感覚や概念を尊重する前に、

まず宇宙の法則を尊重しなければいけません。

宇宙の法則は、人間が人間のために作った都合のいい法則と違って、矛盾は一切ない。

気まぐれもなければ、偶然もない。

宇宙は、全てが必然で、完璧なタイミングで

完璧な調和の元に最善の一手を選択し、

『今』というこの瞬間を創造し続けるているのです。

なので、私達はいつでも、『今』というこの瞬間に下した自身の選択が、

次の未来の一手に影響を与えるということを忘れてはいけません。

宇宙からすると、それは、人間がよくやってしまう、

「今日くらいはいいっかぁ~」というような、

取るに足らない選択をしていい瞬間など、存在しないということでもあるのです。

“今に生きる”という格言の真の意味とは、

過去の栄光をいつまでも追いかける。。とか、

まだ見ぬ未来にばかり妄想する(笑)とかのように、

過去や未来に明け渡してしまった自分の心の軸があるならば、

その軸を自身の力で再び取り戻し、

そして、その軸を『今』という瞬間に保つことを指すのです。

もし、永遠という時間が存在するならば、

きっとそれもまた『今』この瞬間がそうなのではないかと思います。

だから、悟りを開いた先に体現するであろう永遠不滅の幸福とは、

過去にも未来にもなく、

やはり『今』という時間の中にしか見出せないものなのではないか⁈と思います^ – ^

そんなことを考えていると、

益々向こう側の世界を体現したいと思う今日この頃です。

人間の好奇心とは、色々な学びを深めさせてはくれますが、

学べば学ぶほどに、自分がどれだけ無知であるか。。

ということを思い知らされます。

この世の知識をかき集めるという行為は、

空に輝く星屑がどれだけあるのかを数えることに等しく無限であり、

己の小ささを痛感させられる。

それほどに宇宙は広いということなのでしょうが、

こんな感じで、学んだ宇宙の法則も少しずつ

blogでアップしていこうかと思っておりますので、

末長くお付き合い下さいませm(._.)m笑。

今日はそんな宇宙のお話でした^ – ^✨

ではまた次回までっ♪

皆さま、こんにちは^ – ^

昨日、ヴィオラ三宮にて、特別レッスンをさせて頂きました。

ヨーガの醍醐味はアーサナの先にあるのに、

アーサナメインのクラスが主流である現代の傾向に

違和感をずっと感じてた矢先、

座学メインのクラスをさせて頂けたことに、心より感謝です。

座学内容は、二元論。

私達の住む宇宙は、全てが二元の性質を帯びているのには理由がある。

今日は、そんな二元論の世界観をもう一度お話したいと思います^ – ^

二元論とは、この世は全て異なる2つの原理から成り立っている。

という思想のことを言います。

私達の住む宇宙は、全ての物事、事象において
必ず真逆の性質が存在しています。

悲しみがあるから喜びがあり、

闇が存在するから光を知ることができ、

愛を学ぶために憎しみが在る。

つまり、善や光を知るために、それとは対極の悪や闇が存在し、

比較するものがないと、それ自体が何なのか?

ということを理解できない。

私達は、みな、他人がいるから、

自分という概念を打ち建てることができているのです。

自分を知るための材料は、

実は最初から全て目の前に用意されていて、

ただそこに在るものを、

身体という媒体を通してどれだけ感じとれるかで、

目に映る世界は全く変わってきます。

このことからも分かるように、

その人の内面の人間力というやつは、

その人がどうゆう性格でどんなタイプかで決定づけられるものではなく、

どんな環境や状況下に自分の身を置いているか?で決まるのです。

私達は、オギャーと泣いて、この世に生まれ落ちたその瞬間から

今世での人格形成が始まるわけですが、

所詮、人格というやつは、

生まれてから今日まで抱いてきた想念(煩悩、思い煩い)の集まりであり、

移り変わりゆくエゴの一種に過ぎないのです。

誰しもが経験したことがあるように、

自分のエゴに振り回される程、疲れるものはないですよね(・_・;💦

その無意識下にあるエゴである煩悩を表層に持ち出し、

認識し、そして手放すことで、

本当の自己に至れる手段を与えてくれるのが、本来のヨーガであるのです。

大分話がズレちゃいましたが、、、笑。

では、自己が何者であるのか?を教えてくれるこの二元論の先には、

一体があるのでしょうか?

そんなことを考えてみたことはありますか^ – ^?

その先とは、、、

一元の世界なのです。

異なる2つの原理は、本当は別々のものではなく、

+と−は実は1つであるということを示してくれているのです。

愛は、瞬く間に嫉妬へと変わることもあれば、

勇気は、一瞬にして恐れへと姿を変えてしまうこともあります。

つまり、全ては一つであり、調和そのものであり、

全てはバランスなのです。

私達は、人生を通して、この双方のバランスをどう取っていくかを

学ぶためにここに在るのだとは、思いませんか^ – ^?

ではこのバランスは何故重要なのでしょうか?

1番顕著にこのバランスを感じれるものとして、

ヨーガのアーサナにあるシャヴァーサナ、

もしくは日々の瞑想が挙げられますが、

シャヴァーサナとは、瞑想に至る準備であり、

それ以外のアーサナとは、

シャヴァーサナもしくは瞑想のために存在しています。

このシャヴァーサナも、二元の性質を帯びています。

どうゆうことかと言うと、私達は通常、

シャヴァーサナ中、身体の力は当然のように抜きますが、

もう一つ抜かなくてはならないものがあります。

それは、意識の力も抜いてやるということです。

意識の力も抜けて初めて二元は成立します。

本当は意識の力を抜くとそれに連動して身体の力も抜けるようになっているのですが、

私達現代人は何故かこれが苦手な傾向にあるように思ったりします。

要は、意識を力ませたまま、

身体の力だけ何とか抜こうとしているということです。

自身の思考の現れがこの物質界であるのに、

思考をそのままにして物質である肉体だけ何とかしようというのは、まず不可能です。

もし、心地の良いシャヴァーサナに中々入ることができないなぁ~。

と思うことがあったら、これが原因の一つかもしれないですね。

意識の力みを取るとは、シャヴァーサナ中もしくは瞑想中

瞼の裏に思い煩いが浮かんだならば、

それを消そうとしたりしないということです。

その消そうする意志が意識に力みを作るのです。

だから、「今晩の夕飯、何食べようかな?」と思ったならば、

消そうとせず、ただ眺めていればいいのです。

そうしたら、しばらく経ったらその思い煩いは、

勝手に立ち去ってくれますから。

執着は手放すべきものですが、

手放すまでは自身の一部であることを忘れてはいけません。

自身の一部を無理矢理剥がすこと程、苦痛を強いられることもないでしょう。

手放すとは

=自身を縛っているありとあらゆるしがらみから開放してあげる。ことです。

言葉から推測しても、とても、楽であるはずなのに、

その作業に苦痛が生じるというのはおかしくないですか(・_・;?笑っ

手放す作業に苦痛を感じたり、中々実行できないと思ったら、

それは手放す準備を怠っているか、

もしくは、何に執着しているのかを見ずに、

何とか無理矢理、自身から剥がそうとしているのかもしれませんね。

誰でもそうですが、

存在を認められず見捨てられるほど虚しいと感じることはないです。

そんなことを自分にするのだから、苦痛が生じて当たり前であり、

人間の思い煩いの1つ1つにも存在欲求があることを理解しなくてはなりません。

この二元の世界では、合わせ鏡の役割を果たすので、

自分の作り上げてきたものを認識せずして剥がそうとする行為は、

=他人に認められず、捨てられるかもしれないという恐怖を、

逆に、自分にプレゼントしてしまう結果を産み兼ねません。

そうなったら、周りの人に存在を認められたいという思いにさらに駆られ、

自分の内側にある力を全て外側の世界に注ぎ込み、

その注ぎ込んだ対象物に依存し、

内側を空っぽにしてしまう最悪のループに陥ってしまいます。

依存先の対象物(→買い物依存、拒食過食症、

アルコール中毒、外見への異常な執着、薬物依存、

ギャンブル、さらには恋愛における相手への依存、、、etc.)

に明け渡した自分の内面の力は、また回収しないといけません。

とても、面倒ですよね(・_・;💦

なので、

「自分はこうでなくてはいけない。とか、正しくなくてはいけない。

思い煩いを手放さなくてはいけない。」

と思う意識の力みほど、障害になることはないのです。

これは、両極のバランスが崩れることが引き金で、誰にでも起きることであり、

バランスを取ることが、重要な理由もここあります。

本当の意味で両極のバランスを見つけるというのは、

ヨーガのアーサナにおいてならば、陰と陽の間に存在するニュートラルを、

呼吸であるならば、吸う息と吐く息の間の止息を、

心の在り方で言うならば、ポジティブとネガティブの合間に存在する

静寂で穏やかな心を見つけることであり、

瞑想中ならば、思考と思考の狭間に行くことを指すのです。

何故このバランスの中に、

そして思考と思考の狭間に行かなくてはいけないのか?

…それは、

その狭間が、“自己の本質”の住処だからなのです。

私達は、みないつか、

この狭間に行くという選択をする日が必ずやってきます。

何のために自分が此処に存在するのか?

自分の役割とは?

生きる目的とは?

人間は決して衣食住のためだけに生きてはいない。

その本当の自分を知るために、確かめるために。。。

その狭間に行くための方法を、知識だけではなく、

自身の体験をもって獲得していく手段を、

私達に常に教授してくれているのが二元論なのです^ – ^

長くて、重た~い内容になっちゃいましたが、、、笑。

今日はこの辺でっ♪

また次回は、“宇宙の時間”のお話をしたいと思います^ – ^

いつになるか分かりませんが、、 笑。

では、また次回までっ♪

皆さま、こんにちは^ – ^

blogを開設して、はや4ヶ月…

今日、今から書く記事で、blog第7弾。

分かりきってはいましたが、スローペース過ぎる自分にびっくりです( ̄∇ ̄)笑っ

なので、今日は早速本題へいきたいと思います。

悟りを開いたとされる仏教の開祖であるお釈迦様、

ゴータマ・シッダールタ(仏陀)の残した言葉に、

現代人は、“わたしのもの”に取り憑かれている』というのがあります。

意外と現代人に知られていないかもしれませんが、

仏教の始まりは、ヨーガからきたものであり、

私達ヨギーの経典である『ヨーガ・スートラ』は、

仏教の影響を受けていると言われていますよね。

仏教とヨーガは、歴史上において、お互いに、深い関係を持っており、

そして双方の辿り着く先は、同じく、

この世の全てを支え、存在させ得る一つの真実を悟ること。

そして、その真実の悟りから、私達を遠ざけてしまう原因の一つが、

先程述べた『“わたしのもの”に取り憑かれている』なのです。

この“わたしのもの”とは、、、?

分かりやすく言うと、自分の所有物のことを指します^ – ^

皆さんは、「これは、私のものだ!」

と言えるものは、何個持っていますか⁇

変な質問ですよね…笑っ

頭に思い浮かぶ限り全て数えてみて下さい^ – ^

私の服、私の家、私のカバン、私のスマホ、マット、ダイヤ、車、お金、、、etc…

キリなんてないですよね。

数え切れない程のもの、抱え込めない程のものを、

私達現代人は、沢山所有しているのです。

では、アフリカのサバンナを自由に駆け回る動物達は、

何個、所有物があるのでしょうか?

多分、ほぼ何も所有していないだろう。

サバンナを生き抜くのに何かを所有するということは、

それと同時に多大なリスクをも背負うことになることを、

彼らは本能で知っているからである。

では、昔の人々はどうだろうか?

どれくらい遡るかによって所有物の数は変わってきますが、

大昔であるほど、所有物は少なかったはずです。

農耕民族ならば、一束の草履に、簡易な住まい、

衣類や畑を耕すための工具くらいだったのだろう。

それが時代が進むにつれ、所有物が目まぐるしく増えていった結果、

沢山所有することが、豊かさの象徴であるかのような錯覚に陥り、

そのステータスを求めるべく、名声や権力、人の心ですら、

自分の所有物の対象として扱おうとしてしまうまでに至ったのが現代社会です。

もうこれ以上、その器には何も入らないというのに、

手放すことなく、得ることに尽力する。

入りきらない程に、自分の器をパンパンにしてしまったら、

後は壊れるしかないというのに。。。

そして身体や心、記憶も、自身ではなく、

所有物の一つであることを忘れてはいけない。

この身体や心、記憶、美貌や健康……それらを留め置くことはできない。

それは過ぎ去るもの。あるいは、過ぎ去ったもの。

しかし、私達はそれにしがみついてしまう。

地球上の全ての生物は老いることで、

進化を遂げ、種のタネを絶やさず今日に繋いでいるというのに、

人間だけは美貌、若さを求める。

それは老いていくことの価値、美しさを置き去りにしているということ。

一度手に入れたものを、放すまいとしっかり握り締めることで、

再び手を開くのが難しくなる。

手をただ開いていることは何の力も努力も必要としないのに

「手放したくない、失いたくない」という心の思いがそれを妨げる。

それは、幸せになるために『心』を上手に使っているつもりが、

実は、『心』の中の煩悩が満足するための道具として、

『私』が使われている状態なのです。

だから、ヨーガには、手放すことを恐れてはいけない。執着してはいけない。

始まりがあるものには、必ず終わりがやってくる。

誰かと出会うということは、同時に別れがすでに内包されているということ。

その自然の摂理に逆らってはいけないという大切な教えがあるのです。

なので、日常の中において、何かを所有しようとする時、

それに伴うリスクがあるということを心に留めておきましょう^ – ^

『人生とは選択の連続である。』という言葉にもあるように、

何が自身にとって必要で何が不必要であるのかを識別する時、

間違った選択さえしなければリスクを背負うことはない。

前回のblogでも挙げている食べ物を例にとると、

身体にとって栄養のある食べ物を選択し摂取することは体と心の基盤を作ります。

反対に偏った栄養のない食べ物を選択し摂取することは、

その基盤を揺るがします。

加工食品や添加物ばかりの食事、

ファーストフードのような食べ物には栄養素があまり含まれていません。

そのため、沢山摂取しても常に体が栄養を欲している状態になります。

常に何かを食べていたい状態がこれです。

食べても食べても身体も心も永遠に満たされることがない。

まさに地獄の無限ループです。

少し話が飛びますが、先日、理学療法士さんのセミナーに参加した時、

衝撃的なお話を聞かされました。

今の日本女性の流産率です。

年間400万人が妊娠するというのに、

そのうち産まれてくるのは100万人程度。

残りの4分の3は、望まれない妊娠もしくは流産だそうです。

そしてその流産の原因は、母体の健康状態に問題があるというお話でした。

身体にとって本当に必要な栄養素を摂取せず、糖質や脂質を過剰に摂り過ぎた結果、

食べても食べても身体は栄養失調の状態に陥ってしまいます。

そんな中妊娠すると、赤ちゃんは、

ただでさえ栄養失調のお母さんから、栄養素を奪わなくてはならない。

どれ位奪うのかというと、

1gを3000gまで大きくする栄養量、つまり単純計算で3000倍です。

そこで赤ちゃんは考えるのです。

お腹の中にいる時から、赤ちゃんの脳は、大人の脳の70%は作られます。

だから、喋ることは出来ませんが、考える力はすでについているのです。

そして、赤ちゃんにとっての優先順位の一位は自身の身体ではなく、

お母さんの命なのです。

このまま自分がお腹の中にいて、栄養を奪ってしまうと、

お母さんは死んでしまう。

そう考えた赤ちゃんが取る行動は一つしかありません。

「じゃぁ、私が出て行こう。。。」

それが“流産”の原因の一つなのだそうです。

心の欲を満たすための選択を続けた先に背負うリスクの一つですね。

もっと日常的なことで例えを挙げると、

必要もないのに、いつか自分の口が寂しくなった時用のお菓子を、

買い溜めておく選択をしていないですか?

1度着ただけで、タンスの中に眠っている服は何着ありますか?

そして、それを十分に使用もせず捨てたりはしていませんか?

それは、物事を消化せずに排出(捨てて)しまっていることと同じなんです。

心の欲とゆう奴は、

いとも簡単にものの本質を見抜く力を私達から奪い、

本当に大切なものとそうでないものの識別能力を低下させてしまう。

失ってから気付くでは遅いとゆうのに、

失ってからでしか気付けない心のシステムを自分で構築してしまっているのです。

自分の思考の現れが、この“現実”と呼ばれる世界であることを、

私達は、忘れてはいけない。

そして、その心のシステムを変える一つの有効な手段として、

身の回りの必要のないものを一度整理整頓してみるのもいいかもしれないですね^ – ^

日本には大掃除という、素敵すぎる文化があります。

自分の周りには、一体どれだけのものがあり、

それが必要であるのかそうでないのかの再認識をさせてくれるその作業は、

本当に自分にとって必要であるのか、そうでないのかの識別能力を

再び高めてくれます。

必要のないものを捨てない限り、新しいものは入ってきません。

それは精神面にも言えることで、

必要なものを取り入れ、いらないものを手放すという行為は、

過去へのしがらみや、いらないものを手放せさせてくれる

とても有効な手段になるのです。

ヨーガの練習においても、中々上達しない。瞑想に入りにくい。

と思うことがあったならば、

日常の自分を抱えたままでいるからかもしれないですね。

自分の内側にある過去へのしがらみ、自分の社会的立場、

色々な雑念、たくさんの執着や煩悩がその妨げとなっているのです。

ヨーガ・スートラ第2章-47にある

緊張を緩め、心を無辺なるものへ合一させることによってアーサナは熟達する。

と書いてあるように、

何事においても、上達する人というのは、

自分の内側にも広大無辺なスペースを認識できる人。

つまり、心の中が整理されていて

物事をスムーズに処理出来るスペースが確保されていることが、

ヨーガの練習において何よりも大切であるのです。

決してアーサナだけをとり、呼吸法だけを身につけ、

自己満足の世界に終わるものではなく、

自己の精神的成長、人間力そのものを大きく高次な次元へと

アップグレードさせてくれる最強のツールがヨーガであり、

ヨーガの醍醐味とはその先にあるものです^ – ^✨

もし、たくさんの処理し切れない思いがあるなぁ~。と思った時は、

是非、身の回りの整理整頓から始めてみて下さいっ♪笑っ

きっと軽くなってスッキリします^ – ^

そして、身体も思い通りに動かせれるようになるでしょう^ – ^✨

今日はそんなお話でした。

ではまた次回までっ♪